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書評『悪夢のサイクル』内橋克人 著/文藝春秋 刊/1429円+税                かけはし2007.1.22号

市場が人間を支配する新自由主義原理に抗する道へ

--ネオリベラリズム循環

空虚な「いざなぎ超え」

 二〇〇二年初めから続く景気拡大は、二〇〇六年十一月で、一九六〇年代後半の「いざなぎ景気」を超え、戦後最長景気となったといわれている。しかし、われわれの日々の生活からはそのような景気のよさはほとんど感じられない。一般のマスコミでも「実感なき拡大」という言葉がしばしば使われているのである。
 実際、その実質成長率は年平均二・五%であり、後期高度経済成長期にあたる「いざなぎ景気」の一一・五%とは比べるべくもない。また、その成長の中身を見ても、「いざなぎ景気」は、企業の収益が伸びるとともに労働者の賃金も上り個人消費も伸びていったのに対して、今回の「景気回復」は、もっぱら輸出に主導され企業の設備投資によって下支えされたものであって、個人消費の動きは依然として低迷を続けているのである。それどころか、景気拡大と同時並行的に、貧困と格差の拡大が進行しているのである。いったい何がこのような事態をもたらしたのだろうか。本書は、この問いに対する答えを与えようとするひとつの試みである。

景気循環の新しい様相

 本書では、まず、所得格差の拡大、雇用形態の違いによる年収格差、非正規雇用の拡大、生活保護世帯の増大など、とくに一九九〇年代以降に進行した格差拡大の実態が、豊富な図表・グラフによって分かりやすく示されている。また、労働をはじめとする諸分野での規制緩和の推進、所得税制のフラット化など、この間の経済政策が格差の拡大を促進したことも明らかにしている。改めて、この間の格差拡大の凄まじさ、経済政策のひどさを確認させるものとなっている。
 では、なぜ景気拡大と同時にこのような格差拡大が進行したのか。本書は、「格差社会」自体を微視的に論じるのではなく、一九六〇年代以降の各国経済の流れを俯瞰する「世界史的な観点から」(23ページ)この問題に迫ろうとする。本書は、新自由主義政策による資本移動の自由化と金融規制の緩和が、景気循環のありかたを変えてしまったという。従来の一般的な景気循環が需給バランスの調整で好況と不況を繰り返すものであるのに対して、新自由主義政策によって引き起こされるサイクルは、海外マネーの流入によるバブル的好景気と流出による不況を繰り返すものであるというのである。その進行過程を本書の記述をもとに要約すれば以下のようになる。
 まず、資本の自由化、規制緩和、市場の整備といった新自由主義政策の推進が、海外マネーを流入させる。海外マネーの流入によりバブル的好景気が発生すると、企業は借金経営を常態化させ、国・地方自治体も国債・地方債を乱発する。しかし、実体経済の強さをはるかに上回るバブルはやがて崩壊せざるをえず、海外マネーはいっせいに国外に逃避し、一転して不況となる。国や自治体、企業は借金の重圧に苦しみ、銀行は巨額の不良債権をかかえ、リストラがはじまる。労働規制緩和による非正規社員化、フラット税制による所得の二極分化、企業淘汰などがすすむ。そして、企業の価値が低く評価されているときをねらって、一気に海外マネーが流れ込み、再びバブルが発生する。この「ネオリベラリズム循環」が繰り返されるなかで、地域の荒廃、共同体の崩壊、治安の悪化がすすんでいく。これが、本書のタイトルとなった「悪夢のサイクル」である。
 この循環については、新潟大学の佐野誠氏が、最初に、アルゼンチンの一九八〇年代以降の経済研究から発見して「ネオリベラリズム・サイクル」と名づけたとのことである。本書でも、佐野氏らの研究をふまえてチリとアルゼンチンの一九八〇年代以降の経済の動向がまとめられ、この循環の存在が明らかにされている。
 国際的なマネーの動きが景気動向に大きな影響を与え始めているということは、宮崎義一氏が『複合不況』(1992年、中公新書)で先駆的に指摘した論点である。宮崎氏は、一九八〇年代半ば以降の米国および日本におけるバブル経済の生成と崩壊の過程を実証的に分析することによって、バブル崩壊後の不況が金融の国際化・自由化の帰結としての調整過程(金融再編過程)と、それが実体経済に波及していく過程との「複合不況」であることを明らかにした。「ネオリベラリズム・サイクル」論は、この「複合不況」論の問題意識につながるものがあるともいえよう。
 金融のグローバル化によって膨張した国際的マネーの動きは、日米のバブル崩壊後も、各国経済のあり方にますます大きな影響を与えるようになってきている。一九九〇年代後半にアジア各国やロシアを次々と襲った通貨危機など、国際的なマネーの動きがいかに実体経済を疲弊させるかということを、われわれはイヤというほど見せつけられてきた。「ネオリベラリズム・サイクル」論は、こうした世界経済の経験もふまえて、国際的なマネーの動きに深く規定された景気循環を、民衆の生活が破壊されていく過程としてとらえようとするものであるといえよう。
 本書によれば、現在の日本の景気動向も「ネオリベラリズム・サイクル」の一つの局面としてとらえなければならない。内橋氏は、現在の日本は、ネオリベラリズム・サイクルがちょうど一巡しようとしているところであり、「ライブドア事件の直前、二〇〇五年ぐらいから起こり始めた東京の地価と株価の上昇は、いったん壊された日本が割安だとして、再び資金が流入してきたことを意味していた」(117ページ)という。
 端的にいえば、今回の「景気拡大」は、経済的弱者の犠牲の上に海外マネーを流入させる条件を整備することで経済的強者がますます肥え太っていく過程にほかならないのである。多国籍企業化した大企業は国外生産や輸出を伸ばして史上空前の儲けを上げているが、国内の労働者の賃金は伸び悩んでいる。「戦後最長景気」の下での大企業の収益の回復は、大量のリストラや雇用の非正規化などによって労働者に犠牲を押し付けることを通じて達成されたものでしかないのである。

フリードマンの「自由」とは

 このような「ネオリベラリズム・サイクル」の形成には、経済思想の転換が大きく関わっていた。本書では、「市場原理主義の源流」として、つい先日、二〇〇六年十一月十六日に亡くなったミルトン・フリードマンについて、ひとつの章を割いて言及している。シカゴ学派の重鎮であり、「マネタリストの総帥」として知られるフリードマンは、ケインズと並んで二十世紀で最も思想的影響力のあった経済学者ともされている。本書では、彼個人の思想形成の過程を、アメリカの経済および経済思想の歴史と絡めながら跡付けており、ポンド空売りをめぐる師匠フランク・ナイトからの「破門」のような逸話も交えながら、彼の経済思想の内容を批判的に紹介している。その中で、彼の極端な経済的自由主義の原点が「ナチズムとコミュニズムに対する『抵抗の思想』」(83ページ)にあることにも触れられている。
 内橋氏は、フリードマンについて論じた章の最後で、「フリードマンのいうところの『自由』とは一体なんであったのか? それは彼の言うように『国家からの自由』なのか? それとも単に、『お金儲けのための自由』なのか?」(98ページ)と問うているのだが、このことは、新自由主義を批判する上で〈自由〉という概念をどのようにとらえておくべきなのか、議論の整理が必要であることを考えさせる。現在、新自由主義的な経済政策の推進と同時に、「反テロ」などを旗印にした国家の側からの「市民的自由」への規制の強化が進行しているからである。ここで詳しく論じることはしないが、ひとつの重要な課題として、その存在を指摘しておきたい。
 この他、国際的なマネーの動きが世界をひとつの市場とするべく完全なグローバル化を要求するとして、新自由主義と戦争との親和性を論じているのも、本書の特長といえよう。ブッシュ・ジュニア政権のイラク攻撃について、ATTACの分析も踏まえつつ、そのねらいはイスラム圏の市場化にあったとして、アメリカ軍が、現地のイスラム教徒に対して市場主義を教育している様が具体例を交えて描かれており、非常に興味深いものがある。

「市民参加型」資本主義

 さて、ではどうすればよいのか。本書の結論部分において、内橋氏は、国家が経済を計画する社会主義でも市場が人間を支配するのでもない「第三の道」として、「人間が市場を使いこなす」道を主張する。規制緩和に対する再規制によって市場を市民社会的制御のもとにおく「市民参加型資本主義」の提唱である。内橋氏は、規制緩和路線に対して「舵の切り替え」が起こりつつあること(日本での「まちづくり三法」の改正や欧米諸国でのヘッジファンド規制)や「反グローバリズム運動」の進展に注目し、ATTACが掲げるトービン税についても詳しく紹介している。また、市場に対する市民社会的制御が根付いている社会として、北欧諸国における諸々の取り組みを紹介し、極めて高い評価を与えている。
 しかし、新自由主義政策の推進と国際的マネーの膨張がもたらす「ネオリベラリズム・サイクル」という現象の姿に鋭く迫ったといってよいそれまでの部分に比べて、この結論部分がいささか迫力不足な印象を与えるのは否めない。「規制緩和に対する再規制によって市場を市民社会的制御のもとにおく」という抽象的な一般論から、それにかかわる諸々の取り組みの事例が並べられているにとどまり、「ネオリベラリズム・サイクル」背後の構造をふまえつつ、その具体的な変革の構想を筋を通して展開するということにはなっていないのである。
 もちろん、そのような構想は容易に提示できるものではなく、本書にそれを期待するのは筋違いかもしれない。「ネオリベラリズム・サイクル」の諸相について、その思想的根源や世界史的な意味までも射程に入れて描ききった内橋氏の経済評論家としての手腕は高く評価されてしかるべきであろう。ただ、「ネオリベラリズム・サイクル」からの脱却を構想していくためには、その背後の構造に分け入っていく必要があると思われるのである。ここでは、「ネオリベラリズム・サイクル」背後の構造のとらえ方について、少しばかりふれておきたい。

ポスト・フォーディズム

 戦後の資本主義経済の高度成長を支えてきたのは、「フォーディズム」と呼ばれる体制である。これは、一言でいえば、大量消費に支えられた大量生産による高度成長体制である。各国の資本主義経済は、耐久消費財の広範な普及による大衆消費社会を実現し、生産性上昇の枠内で労働者の実質賃金を上昇させることで大量消費を促し、拡大再生産を保障してきたのである。これは、国内市場主導型の成長を前提にしたものであったが、一九六〇年代末、各国の市場で耐久消費財の生産が一巡すると、このような体制は維持できなくなり、低成長に移行した。さらに、国家財政の投入で有効需要を創出し「完全雇用」をめざす、いわゆる「ケインズ政策」の継続は、インフレと深刻な財政危機をもたらしたのである。
 各国間の輸出競争が激化してくる中で、大企業への社会的規制を徹底的に取り払うと同時に、政府の経済への介入分野をできる限り縮小して市場化を促し、社会生活のあらゆる分野を企業の利潤追求に開放していこうという新自由主義の経済思想と政策が台頭してきたのであった。
 このような資本主義の構造変化と密接にかかわって、マネー経済の膨張が進行した。ドイツや日本の経済大国化、ベトナム戦争の泥沼化、多国籍企業の海外投資による国際収支の悪化によって、アメリカの世界経済に占める地位は低下した。この結果、一九七〇年代初めには、金とドルの一定比率での交換を保証することによって成り立っていたIMF体制は崩壊し、変動相場制へ移行したのである。変動相場制への移行と新自由主義政策の推進とが相まって、金融の国際化・自由化を促し、為替相場の変動を利用しての投機的取引を膨張させた。二〇〇四年の世界中の国際貿易の年間取引高が約八・八兆ドルであったのに対して、世界の主要市場での外国為替取引高は二〇〇四年四月時点で一日平均一兆八〇〇〇億ドル、年間に換算して五〇〇兆ドルに達しているのである。
 マネー経済の膨張の問題を、人類史の流れの中に位置付けてみよう。そもそも貨幣は、人間が社会的分業において物質的生活を営んでいく過程において、諸々の具体的有用的労働の産物を交換――交換を目的として生産されるものが商品である――するための手段として生まれたものである。社会的分業の発展が恒常的な商品市場の形成を促し貨幣流通の拡大をもたらすと、貨幣は富の蓄積手段としての機能も持つようになった。社会的分業がさらに発展して市場が拡大し貨幣流通がいっそう拡大すると、労働力や土地、さらには貨幣そのものまでもが商品化され、市場経済が社会から分離した自立的なシステムとして確立した。このことによって、資本・賃労働関係を前提に利潤獲得目的で生産が行われる資本主義経済が成立したのである。
 貨幣の商品化による信用制度の発展は、そもそもは実体経済の反映として生じたはずの貨幣経済の動向が、逆に実体経済に大きな影響を与えるという状況をつくりだしてきた。二十世紀後半以降の変動相場制の時代に至って、マネー経済は実体経済の数十倍の規模にまで膨れ上がり、いまや、ほんの一瞬の操作で得られる巨額の儲けを求めて動き回る投機的なマネーが、人々の生活と結びついた実体経済のあり方を決定的に左右する状況が生まれているのである。
 このように考えれば、「ネオリベラリズム・サイクル」は、資本の利潤追求と労働者・人民の生活の向上・安定とがもはや両立し得なくなった、そういう資本主義経済の新しい段階に特有な景気循環のあり方だということになる。「ネオリベラリズム・サイクル」という「悪夢のサイクル」からの根本的な脱却は、人類史の流れの中で資本主義経済の現段階を位置づけてその構造を過程的に把握し、それを乗り越えていく展望を持つことなしには、構想し得ないと考えられるのである。たとえば、トービン税の導入についても、このような構想の中で、実体経済のあり方を決定的に左右するまでに膨張した著しく不安定なマネー経済の動向に、多少なりともコントロールを加えていこうという試みとしてとらえてみる必要があろう。 

資本主義の枠組みを超えて

 内橋氏は、「国家が経済を計画する社会主義の失敗は歴史が証明した」(176ページ)という見解に与しているようである。確かに、ソ連・東欧の崩壊によって、「資本主義へのオルタナティブとしての社会主義」という意識は決定的に崩壊し、社会主義革命運動のひとつのサイクルは終了した。しかし、だからといって、「ネオリベラリズム・サイクル」からの脱却を資本主義の枠内で構想しなければならないということにはならないだろう。内橋氏は、「『協働』『連帯』『参加』という共生の原理で動く組織や社会」として、「共生セクター」について言及し、「F(フーズ、食糧)、E(エネルギー)、C(ケア)の地域自給自足圏」の形成を一つの理想的なあり方として主張している。
 これら自体は、非常に興味深く示唆に富む発想ではある。しかし、「共生セクター」的な取り組みなり「地域自給自足圏」なりは、利潤追求を第一の生産の動機とするグローバルな資本主義経済を前提にする限り、大海に浮かぶ笹舟のような存在にしかなりえず、局地的に点在するしかないだろう。「共生」の原則をグローバルなレベルで真に打ち立てようとするには、「市民参加型資本主義」という発想にとどまってはいられないと思われるのである。
 科学的社会主義を確立したとされるマルクスやエンゲルスは、資本主義経済についての徹底的した科学的分析から新しい社会を構想しようとした。現代に生きるわれわれも、彼らの精神を受け継ぎ、オルタ・グローバリゼーション運動をはじめとする諸々の闘いと結びつきそれに学びながら、現代資本主義の構造に深く分け入って、「もうひとつの世界」を構想していかなければならないのである。
       (堀川峻弘)


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