| 自国民を対象に制度化した唯一の国家 かけはし2008.9.8号 |
警察の見苦しい答弁
10余年前のある日。
仁川で労働運動をしていた先輩のお父さんが亡くなられたという知らせを聞いた。その当時、先輩は集示法(集会・デモに関する法)違反で服役中だった。先輩のお父さんはアルツハイマー症で、家を出たまま5〜6年間も行方知れずになっていた。父親が家からいなくなった後、先輩や家族らは警察への申告はもちろん尋ね人のステッカーを張ったり、全国の養老院・療養院、アルツハイマー老人保護所など八方手を尽くして探し回ったけれども、結局は探し出すことができないままに監獄に行き、父親が亡くなった後で家に連絡がきた。
誰もが、けげんに思った。「どうして家に連絡が来なかったのか、と」。「保護所で亡くなった後、指紋捺印の確認をしてみて住所が分かった」というのが警察側の答えだった。
それならば存命のときに、指紋捺印の確認をしていたなら難儀しながら逝かれることはなかったのではなかろうか、という子どもらの怒りに対して警察の答弁は、いかにも見苦しい。「犯罪者と死んだ人間だけが指紋捺印の確認が可能だ……」。
犯罪者と死んだ人だけが、確認ができるという指紋捺印の入った住民登録証を大韓民国の国民は大部分が持っているし、満17歳になれば住民登録証を当然にも作るものと思っている。私も17歳になったとき、さしたる問題意識もなしに10本の指の指紋を捺印した、高校卒業の前にして作る住民登録証は、私が成人になり、また社会から認められるひとつの証票として認定されるとともに、シャキッとした思いさえした。そして多くの人々がそうであるように、いったん指紋を捺印した後、住民登録制度や指紋捺印に慣らされて当たり前のように考えるようになる。
私は現在、更新されたプラスチックの住民登録証を作っていない。私の周りでも指紋捺印を拒否し、住民登録証を作っていない同志たちがいる。
現在は運転免許証も身分証の役割をし、パスポートもあって、それほどの不便さはない。けれども運転免許証を身分証として代替することはできないという時期もあったし、指紋捺印を要求する政府の政策によって困難な時期もあったけれども、それでもがんばっている。それは私の経験と判断によるもので、指紋捺印を拒否している人々も同じ考えだろう。
犯罪者に仕立てる道具
私が指紋捺印に問題を感じたのは1987年に国家保安法違反で南学洞の対共分室に引っぱられていった時だ。取り調べは懐柔と脅迫、そして暴力の連続だった。
陳述書は圧迫と恐怖の席で達成された。彼らは国家保安法違反を内容とする数十枚の陳述書の1枚1枚ごとに指紋捺印をさせ、捺印した10本の指の間に私の顔を当てて写真を撮影し、永久に犯罪者として仕立てた。そのむごい行為を経験しながら、指紋捺印というのは私を永遠に犯罪者として仕立て、ウソを真実へと化けさせる道具であることを確認した。私は「2度と指紋捺印はすまい」と決心した。
その事件以後、銀行での用足しのたび、あるいは洞事務所(行政の末端機関)で印鑑証明書の発給を受けるたびに、運転免許証では本人の身分が確認できないので住民登録証を持ってこい、という職員ともめごとになる。最近を実印の更新の際に洞事務所とひともめしなければならなかった。
職員は「運転免許証は確かな身分保証にはならないから住民登録証を持ってこい」というのだ。結局、警察が発行した運転免許証は信じることができないと言うので、警察に電話をして身分確認を受けようと言い争いをせざるをえなかった。そうやってこそ、やっと業務処理をしてくれた。
戦前の日本支配下が起源
韓国における指紋捺印と住民登録制の起源は、1930年に日帝が樹立したカイライ満州国にまでさかのぼる。満州国では民族別の差別統制、独立運動勢力の割り出しのために「国民手帳制度」という指紋捺印と身分証明を実施する。その満州国で40年代に日本軍の将校として服務した者がパク・チョンヒだ。
日帝は1942年、強制的居住者登録制度として「朝鮮寄留令」と「寄留付属措置」を公布し、90日以上居住する目的で本籍地外の一定の場所に住所または居住を定めた者は府邑面(行政単位)に備えられた寄留簿に登録するようにした。また1943年には徴兵予定者に対する「戸籍および寄留一斉調査」を通じて行政帳簿上にすべての朝鮮人の居住ならびに家族関係を掌握した。日本はこれを通じて急速に増大する物資や人力を徹底して管理し統制したのであり、指紋捺印制度を通じて再び独立闘争をしていた独立軍を探し出したりもした。
全世界のすべての歴史をひっくるめて、住民登録あるいは指紋捺印制度があった例は日本支配下の朝鮮と満州、英国のインド、フランスのベトナムのように帝国主義時代の植民地でだけだ。
本国で自国民を対象に十指の指紋捺印を強制によって行ったのは歴史的に、全世界的に大韓民国が唯一だ。
「朝鮮寄留令」は政府樹立以後も効力を維持(道民証発給)してきており、1962年のパク・チョンヒ軍事政権によって国会で強引に制定された住民登録法へと継承される。住民登録制度に指紋捺印が加えられたのは、北韓(北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国)の武装浸透グループが南派された1968年だが、名分はスパイを割り出すというものだった。だが、狙うところは全国民の監視だった。1970年からは強制事項に変えられて今日に至っている。
公務員に実績競争を強制
1997年に住民登録法が改定され、制度が変更された。住民登録証をIC電子住民カードで作ることに反対する声が高まるとプラスチックの身分証に変更されたけれども、写真と指紋をコンピューターに入力して使用している。
当時、プラスチック住民登録証を普及させるために洞事務所ごとに実績競争をさせ、公務員を動員して住民登録証の更新に熱をあげた。
私が住民登録証を作らないと、洞事務所では住民登録発給通知書を何回にもわたって郵便で送ってきた。電話にも応じないでいると家までやってきた。私が住んでいる洞に住民登録証を作っていない人が4人いるが、そのうちの1人は行方知らずで手配ができず後の2人は説得をして翌週にすることにしたがアジュマ(おばさん)だけがまだなので、ぜひともしてくれというのだ。
あたかも住民登録証の更新が洞事務所別の競争となり、早く、そしてより多く実績をあげる洞事務所に豪華な報奨でも与えられるのか洞事務所の職員は住民登録証の発給に対して命をかけたかのように説得をし続けた。
泣き落としまで使う
住民登録証を作らなければ過料が課されるという脅迫をはじめ、どのみち世の中を生きていくうえで住民登録証がなければ何かと不便ではないかという説得、何とかアジュマがやってくれさえすればわが洞はみんながしていることになるという泣き落としまで。
その洞事務所の公務員の誠実さと努力を考えるとやってやりたい気持ちもあったが、そういう問題ではなかった。むしろ国民の人権を侵害し、統制と監視のための目的で使用する住民登録上の指紋捺印は今や変えなければならないことを話したが、趣旨は分かるがとにかくやってくれと頼んでいた。その公務員もどうにもならないことを知ってあきらめた。それ以後、私は他の区に引っ越しをしたので、その公務員は痛んでいた歯が抜けたように、どれほど良かったことだろう。
国民を犯罪予備軍扱い
独裁者パク・チョンヒが死んで軍事独裁が幕を下ろし、いわゆる文民政府、参与政府までが登場し、現在の21世紀のイ・ミョンバク政府に至るまで40年を超える長い歳月の間、今なお住民登録制度と指紋捺印制度はそのまま存在しており、むしろさらに一層堅固になっている。満17歳になるすべての国民の十指の指紋を強制によって捺印し、警察に渡して電算処理後、コンピューターに貯蔵しておくからだ。
つまり国家は、すべての人が互いに異なるという指紋を十指のどれ一つ欠かすことなく捺印させ国民をバーコードに作りあげ、国家という権力の力によっていかなる制限もなしに統制し、監視し、思うがままに使えるようにしているのだ。主権をもった国民としてではなく、いつ犯罪をしでかすかも分からない予備犯罪者として見ているのだ。住民登録証がないという理由で加えられる一切の不利益や被害は、それがどんなに小さなものであっても指紋捺印を拒否している良心と信念の選択に対する侵害であり暴力だ。
人権は、いかなる価値にも優先するものであり、国家の監視や統制を受けてはならないだろう。国民の十指の指紋を強制で捺印させているように、基本的な人権を侵害している国家の行為は決して正当化できないだろう。指紋捺印制度をなくすことは日常生活の中で闘争すべき小さな実践ではあるが、これが集まって国家の権力から個人の人権や国民の主権を打ち立てていく重要な闘争だ。指紋捺印制度のない日が一日も早くくることを期待する。(「労働者の力」第147号、08年7月16日付、チョ・ソンジャ/会員)
【訂正】本紙前号8面「韓国はいま」の上から5段目、中見出し「建国史を守る闘いが必要」から4行目「1945年8月15日を『建国節』として作ろうとする努力の間には」を「1945年8月15日を光復として記念すること、1948年8月15日」を『建国節』として作ろうとする努力の間には」に訂正します。
コラム
存在の承認
「希望は戦争」と月刊誌に書いた三十二歳のフリーター・赤木智弘の主張が、発表から一年を経てなお、論争の種になっている。赤木自身は「戦争がしたいわけではなく、非正規雇用のやり場のなさを打開する外部の力として、そこに希望を求めた」と告白するのだが、彼の衝撃的な揶揄が説得力を持つ、そんな出来事が相次いでいるのは、皮肉である。
今年六月の「秋葉原通り魔事件」も、その象徴的な一例である。加害者は静岡県の自動車工場へ派遣されていたK。輸出用大衆車の目視塗装点検が彼の仕事だった。職場で契約打ち切りの噂が流れた頃、ネット上ではある「事件」が起きていた。たび重なる挫折、孤独と絶望。「みんな敵、死んでしまえ」――自暴自棄は極限へと向かい、やがて爆発した。七人の尊い命が犠牲になった。
事件への論評や分析が、メディアを賑わせた。メールやネットの世界の問題点を指摘する向き、非正規労働の不安定さを訴える声などなど。一部のメディアを除いて、加害者個人への人格攻撃ではなく、実行行為の背景を論じる紙面が多かったことには、不謹慎かもしれないが、救われる思いがした。この事件を契機に、サイトには犯行予告の書き込みが増え、加害者に共鳴したり英雄視したりする投稿も少なくないという。
結局、Kのような経歴を持ち、同様の境遇に置かれ、不安と孤独に苛まれ続けているという現実は、めずらしくないのである。労働現場からの疎外感はいつの時代もあったろうが、それを癒す唯一の手段が、急速に発達した情報ツールであり、ネットサイトの世界だった。だがKは、この最後の「拠りどころ」からも、見捨てられかけていた。
社会学者の大澤真幸は、この事件と若年労働市場をとらえ、既成左翼に次のような辛らつな批判を加えている。「安定の場所にいる左翼は、女性、フリーターといった弱者を次々と見つけ出し、同情し、弱者差別を批判する。左翼は弱者を応援することで、ナルシスティックに陶酔しているように見えるのだ」(「左翼はなぜ勝てないのか」東京新聞・7月29日、30日)。こうした論説に新しさは感じないが、私たちが奮闘する材料として、無視するわけにもいかないだろう。
職場の荒涼は、非正規労働現場だけの光景ではない。過酷なノルマ、サービス残業、理不尽な成果主義とはびこる不正義。「今やデモやストライキをしないのは労働組合だけだ」と、地域の仲間は嘆く。
せめてKが、「今日、飲みに行かないか」と職場の同僚や上司に声をかけられていたら、事件は起きなかったかもしれない。こう考えるのは軽薄だろうか。とにかく他者の存在を認めあい、尊重しあうこと。私たちの周辺から始めたい。 (隆)
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