もどる

法にもない刑暮らし                  かけはし2009.10.26号

懲役刑終えてもさらに最長7年延長される保護監護制


 05年2月中旬頃、ハンギョレ新聞社に60余通の手紙が数月の間に相次いで配達された。いずれも同じ所から送られた手紙で、書き手はいずれも異なるが内容はほとんど一緒だった。
 「長い収監生活の間に愛する妻から離婚され、オモニ(母)と死別し、幼い子どもらに傷みを与えた人間です。けれども刑期を終えてもなお、いつ出所できるか分からない、あてのない監護生活が続いています。……保護監護制が廃止さえできるのならば強力犯を対象とした遺伝子検査に自ら応じてでも、1日も早く娘たちの側に行きたいです」。

80%は凶悪犯とは言い難い


 チョン某氏は懲役3年の刑期を終えて満期出所したが保護監護処分を受け、2004年慶北・青松保護監護所で再び収監生活をしていると語った。「〈ハンギョレ〉に手紙を送る運動」を主導したカン某氏(当時41歳)は当時、監護所からハンギョレ新聞社に電話をかけ「遺伝子採取が人権侵害だということをよく承知しているが、2度と罪を侵さないという(被監護人らの)覚悟を表現したもの」だと語りもした。再び犯行を侵すなら自分たちをたやすく捕らえることができるように遺伝子情報を捜査機関に委ねるというハン(恨)はあったとしても、保護監護はもうやめにしてくれ、という要求だった。
 保護監護は有罪に伴った懲役が確定した犯罪者のうち強力犯罪を何度も侵した累犯らに懲役暮らしを終えた後、保護監護所で最長7年まで「保護」と「監護」を追加で受けるようにした社会保護法上の制度だ。
 けれども懲役後の保護監護は二重犯罪だとの論難が絶えなかった。法的概念でのみ保護監護であるにすぎず、実際の運営は懲役暮らしをすることと何ら変わらなかった。矯導所(刑務所)同様の施設で同じ食事をし矯導官(刑務官)らの統制を受けたためだ。また保護監護中の人の80%近くは凶悪犯だとは言えない窃盗犯だとの調査結果もあった。
 多くの人権諸団体の奮闘の中で2005年に「社会保護法廃止法律」が国会を通過し、遂に2005年8月4日、社会保護法は公式に歴史の後景に消えた。裁判所はもはや判決文の後ろに「保護監護処分を命」じることができなくなった。二重処罰の論難も深い眠りにつくこととなった。それで終わったのだろうか?
 オ・デス氏(43、仮名)は現在、慶北・青松第3矯導所に入所中だ。彼は2001年3月、強盗・性暴力容疑の有罪が認定され、懲役7年を宣告されて昨年、満期出所した。だが家に帰れなかった。保護監護者たちが集まっているここに収監された。2005年、社会保護法が廃止されたのに3年後の今、懲役刑を終えた彼が、なぜ保護監護を受けているのだろうか?
 社会保護法は2005年に命脈が尽きるとともに、問題となる一文を残した。「社会保護法廃止法律」2条に「この法の施行以前に既に確定した保護監護判決の効力は維持され、その確定判決に伴う保護監護の執行に関しては従前の『社会保護法』に準じる」と規定したのだ。法を廃止しようとする際、法務部(省)と一部の世論は、ほとんど「人間のクズ」同然の「凶悪犯ら」が社会にどっと出てくることになれば犯罪が再び多発し、社会が混乱に陥るだろうと憂慮した。開かれたウリ党の社会保護法廃止の主張に法務部保護局長を担当したことのあるチョン・ドンギ大邱地検長(当時。その後、青瓦台民政首席を経て、いくらもしないうちに政府法務=特殊法人=の公団理事長に就任)が乗り出して「保護監護制についての充分な理解のない論議は、ともすれば犯罪に対する国家の対応力を弱める大きな問題をひき起こすだろう」と憂慮した。結局、2条のいかがわしい折衷がなしとげられた。
 オ氏は、まさにこの条項にひっかかって青松第3矯導所にやって来たのだ。彼は悔しく恨めしく思っている。保護監護処分は二重処罰だから禁止するとしておいて、法の廃止以前に出ていたものは二重処罰ではないという訳だからだ。依然として青松第3矯導所は他の矯導所と循環勤務している法務部矯正本部所属の矯導官らが監視を行う。本刑である懲役刑暮らしの時も、現在の保護監護処分を受けている時も違ったものはない。

懲役刑と保護処分、違いは?

 事件以後、彼に面会に来た人は誰もいない。彼をもはや息子とは考えていないアボジ(父親)は彼と嫁とを無理やり離婚させた。早婚だったために既に高2になった娘がどこで暮らしているのかも分からない。韓国放送通信大学法学部4年に在学中の彼は「出所したら再びトレーラーの運転手として一生懸命に生きていく」と語り、依然として保護監護状態にある人々を直ちに釈放すべきだ、と声高に語った。
 法務部によれば現在、青松第3矯導所でオ氏のように保護監護処分を受けている人は全部で77人に達する。2005年以前に懲役刑と保護監護処分を同時に宣告されたが、まだ懲役刑が終わっていない人々もいる。無期囚11人を含め、全部で187人だ。
 これらの人々は今後、保護監護処分を受けなければならない。息絶えてから初めて監獄の門を出ることのできる無期囚の場合、保護監護は不必要なものだけれども、しばしば無期囚の相当数はもめ事を起こすことなく10〜20年ほどが過ぎれば刑の執行が停止されるために、判事は保護監護を一緒に宣告したのだ。無期囚であって脱獄した後、強盗行為を事としていたシン・チャンウォン氏も22年6カ月の懲役刑と保護監護処分を追加で宣告された経過がある。
 保護監護制度を廃止すべきだという主張の哲学的基盤は「犯罪は社会的なもので、完全に個人の間違いだけではない」ということから出発した。実際に、ソン・ムノ全北大教授(法学)が2003年当時に青松保護監護所の収容者を対象として調査した結果、学力を問う質問に応答者1022人中の71・4%(730人)が中卒以下の学力保持者だった。入所前の経済水準についての問いにも応答者1008人中71・2%(719人)が下層だったと回答した。
 ここに、保護監護処分中の77人のうちの1人がいる。彼の話を伝えること自体が貧しかったり片親の下にいる児童に烙印効果を強めることになりはしないかと恐れながらも、伝えないわけにはいかない。オ氏のように昨年、懲役刑を終えて保護監護処分を受けているパク・オソン氏(仮名、51)。彼はソウル・ワンシム里が故郷だ。早くに実母と死別し、M初等学校(小学校)2年だった9歳の時、継母の手に引かれて京畿・水原駅に捨てられた。1人で何とか汽車に乗って着いた所が永登浦駅。性売春の集結地で働いているある「ヌナ(お姉さん)」に会った。パク氏は「身を売っているヌナが私を弟のように育ててくれた」と語った。

罪刑法定主義とズレ

 勉強したこととてなく、持つものと言っても何もない彼は周りの「お兄さんら」と交わりつつ、オートバイの世界にはまり込んだ。お兄さんらと一緒にオートバイを盗んで常習窃盗の容疑で3年の刑を受けたのが18歳の時の1976年。1979年に満期出所した彼は8カ月にして再び窃盗容疑で2年の刑を受けた。1988年には強盗傷害の容疑で拘束された。
 高級公務員たちばかりを犯行の対象としていたために、マスコミは彼に「紳士強盗」というニックネームを付けた。青松保護監護所をその時、初めて訪れることとなった。2002年、14年ぶりに社会復帰をした彼に「青松」の同期たちがやって来た。そして1年後、パク氏は強盗・性暴力事件に組み込まれることとなった。自身は車で待っていて、同期たちが現金などを奪ってくれば逃亡する役割だった。被害者との面通しの際、被害者が「あの人は性暴行犯ではない」と話したけれども結局、5年の懲役刑とともに保護監護処分を受けた。彼が監房で送っている時間だけで人生の半分にもなる25年目だ。今後、保護監護7年を満期まで過ごすなら、2015年になってやっと矯導所から出所できる。
 オ氏やパク氏は青松第3矯導所にいる人々の中で比較的良好な方に属する。中には青松に入れるようにしてくれとして、わざわざ盗みをする人々もいるかと思えば、児童性暴行を10回以上もしでかして、他の監護者たちの目から見ても社会に送り出してはだめなような人々もいる、という。
 そうだったとしても、懲役の延長線上と何ら変わらない現在の保護監護処分を受けさせ続けているのは、4年前の社会保護法廃止の趣旨と矛盾する。大韓民国憲法は罪刑法定主義を明確にしている。彼らは、処罰を受けるように法が定めた罪刑とは関係のない処罰を受け続けているわけだ。彼らの「保護」や「監護」のための別途の予算も策定されず、一般矯導所の業務を担っている法務部矯正本部側が彼らについての責任をとっている。彼らの立場は一般受刑者と全く変わらない。

最後の1人は2035年に

 彼らを引き続き保護監護状態に委ねおきたいならば、一定の自由のはく奪を除いては一般社会人らが享受している最小限の条件などが保障されなければならないというのが専門家らの考えだ。刑罰ではなく「保護」と「監護」だからだ。そうする予算や意志がないのであれば釈放するのが正しいというのだ。また、ひと月に1人程度にとどまっている仮出所を拡大することによって、法廃止の精神に合わせて収容者を大幅に減らさなければならないとの指摘だ。オ・チャンイク人権連帯事務局長は「社会保護法が廃止された状況で、単純に累犯だとのレッテルゆえに彼らを保護監護の処分をしているのは、あまりにも苛酷だ」し「彼らを1日も早く釈放する措置がとられなければならない」と語った。
 無期囚を除いた有期懲役収監者のうち、未来の保護監護処分を待っている最後の収監者が青松第3矯導所の門を出て行くのは、長ければ2035年となる予定だ。(「ハンギョレ21」第780号、09年10月12日付、青松=チョン・ジョンフィ記者)


投書
「昭和八十四年」を観て
SM

 「昭和八十四年 1億3千万分の1」というドキュメンタリー映画(伊藤善亮監督作品/2009年/日本)を観た。
 この映画は、飯田進さんについてのドキュメンタリー映画だ。「横浜市に住む飯田進さん(86)は先のニューギニア戦線で地獄のような苦しみを味わった。住民らを殺害した罪で、BC級戦犯として重労働20年の判決を受けた」(『朝日新聞』2009年8月15日夕刊)。「33歳で出所。被爆者の妻との間に授かった長男には両手の指が1本しかなかった。サリドマイドの薬害を掘り起こし、父母の会を結成。障害を持つ子どもたちの福祉に奔走した」(『朝日新聞』2009年8月15日朝刊)。
 「日本軍は、ニューギニアで、住民に道案内をさせた。案内をさせた後で、秘密保持のために、その住民を殺した。殺害は、上官の命令だった。でも、私の良心は痛む。一生の心残りだ」。飯田さんは、この映画の中で、そんなような意味のことを言っていた。「一生の心残り」というようなことは、もしかしたら、言っていなかったかも知れない。私には、この映画の中で、その部分が印象に残った。この映画は、「朝鮮戦争で警察予備隊が発足したときの巣鴨プリズン内での平和運動」(佐藤忠男、『キネマ旬報』2009年10月上旬号)についても触れている。
 「飯田さんは、無謀な作戦計画を作った大本営参謀の責任を問う一方、昭和天皇についても戦後、国民に謝罪するか、講和条約で日本が主権を回復した時点で退位すべきだったと考えている。『戦争を指導した連中は、昭和天皇が責任を追及されないなら、おれたちだって免責だと考えてしまった。日本の倫理的な腐敗がそこから始まったと思う』」。(『朝日新聞』2009年8月15日夕刊)の「窓 論説委員室から」で、脇阪紀行さんは、そう書いている。
 十月十二日に、文京区民センターで「えーかげんにせーよ!天皇在位20年フォーラム」が行われた。「天皇制の戦争責任・戦後責任」についての分科会に、私は参加した。「BC級戦犯の間には、日本共産党のオルグもあり、平和運動も存在した。加藤哲太郎は、『私は貝になりたい』の原作の中で、天皇のことも批判している。だが、『私は貝になりたい』の映画の方は、ダメだ。内容がない。映画化されたものの中では、フランキー堺が出ているものの方がましだ。本は、朝日文庫のものは、ダメだ。読むなら、春秋社から出ているものの方が良い」。内海愛子さん(日本アジア関係論)は、分科会の中で、そんなことを話していた。私は、この映画を観て、内海愛子さんのその話を思い出した。
 「マスコミの反動的な報道を批判するのは、良い。だが、良い報道があったら、それをほめることも大切だ。それは、良心的な報道に対する応援になる」。内海愛子さんは、分科会の中で、そんなことも話していた。私は、この文章を書いていて、そのことも思い出した。
 映画が上映されていた渋谷のアップリンクXの受付の近くには、『魂鎮(たましずめ)への道』という本(飯田進著、岩波現代文庫、1300円+税)や『証言記録 兵士たちの戦争』という本の@AB巻(NHK「戦争証言」プロジェクト著、日本放送出版協会(NHK出版)、各2200円+税)が置いてあった。
 スターリン主義の犯罪を批判し、スターリン主義の克服を目指す左翼は、存在する。ドイツには、ナチズムを否定する右翼(保守)も、たくさん存在する。だが、天皇制の戦争責任を批判し、天皇制の克服を目指す右翼は、日本には、存在しない。そんなマスコミは、日本には、存在しない。日本の右翼やマスコミ人には、良心のかけらもないのか。良心をもった右翼やマスコミ人は、日本には一人も存在しないのか。私には、良く分からない。(2009年10月17日)


もどる

Back