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不破哲三『科学的社会主義を学ぶ』批判(1)       かけはし2002.9.23号より

「資本主義の枠内での改革めざす国民政党路線」の理論的粉飾

樋口 芳広(日本共産党員)


 日本共産党不破・志位指導部は、二〇〇〇年の第二十二回党大会で「資本主義の枠内での改革をめざす国民政党」への全面的転換に踏み込んだ。不破哲三の『科学的社会主義を学ぶ』(新日本出版社)は、この右翼的転換を理論的に粉飾しようとするものにほかならない。以下は、批判的共産党員による論考である。



はじめに

 第二次世界大戦後に形成された現代資本主義システムは大きな行き詰まりに直面している。資本のグローバリゼーションが進行するなかで、これまで労働者人民が闘いとって来た改良の成果を奪い取ろうとする新自由主義の攻勢が激化している。
 しかし、「資本主義の枠内」の改良によって「日本経済全体のまともな発展」が可能になると主張する日本共産党の不破・志位指導部は、二〇〇〇年の第二十二回党大会で党規約を全面的に改定し、資本主義の枠内で改良をすすめる国民政党への全面的転換へ大きな一歩を踏み出した。
 ところが、この規約の第二条には、「党は、科学的社会主義を理論的な基礎とする」と明記されている。新自由主義の攻勢のもとで、資本主義の枠内での改良を正当化し、資本主義経済の新たな発展をめざす「科学的社会主義」とは、一体いかなるシロモノであろうか? それを知る格好の材料が、不破哲三議長の『科学的社会主義を学ぶ』(新日本出版社)である。
 本書は、二〇〇一年一月の中央党学校で、党幹部、活動家を対象におこなわれた講義がもとになっている。この著作は党内で「独習指定文献」以上の扱いを受けており、「しんぶん赤旗」をはじめ党関係のあらゆる雑誌において大げさな賛辞が捧げられている。これらの賛辞の一致した見方によれば、本書は、科学的社会主義の理論が基本から分かりやすく説かれているだけでなく、著者の長年にわたる研鑚のうえに立って、市場経済論や資本主義の根本矛盾、帝国主義論など、理論の根幹にかかわる問題について高度な提起がなされているそうである。
 はたしてそれらの提起は、科学的社会主義の理論の発展と運動の前進につながる「高度な」ものなのであろうか? この問題は、日本共産党の近年の右傾化を評価するうえで重要な意味を持っている。本稿では、こうした不破の提起を中心に、彼の「科学的社会主義」について検討してみたい。

1、弁証法は詭弁ではない

 本書は、理論の基本から分かりやすく説明されていることが売りとなっているのだが、あまりにも乱暴な単純化やデタラメな議論が目立つ。その最たるものが、「政治の世界の弁証法」と題された一節である(五一ページ〜)。ここでの不破の議論は、彼が自らの政治的主張を正当化するためにいかにひどいやり方で理論を歪めているか、その端的な例と言ってよい。彼の「高度な」理論的提起について検討する前に、まずこれについて見ておこう。
 不破は、弁証法的なものの見方の重要性として、白は白、黒は黒という固定観念にとらわれてはならないということをことさらに強調しているのだが、こうした見方が政治への取り組みにとって非常に大事であるとし、その一例として憲法と自衛隊の問題を取り上げている。
 不破は、日本共産党が参加する民主的な政権と自衛隊が共存する過渡的な時期を認めるのが弁証法的な見方であって、責任ある政党としてこの過渡期にどういう対応をするのか明確にする必要がある、自衛隊は憲法違反だから民主的政権との共存を認めないという固定観念にとらわれた態度では自衛隊解消への道筋を示すことができない、と主張する。憲法違反の軍事力の半永久的存続を認め、「急迫不正の主権侵害」に際してその活用も当然とした自衛隊政策が、弁証法の名のもとに正当化されてしまうわけだ。
 不破のこの説明は、見たところ弁証法の正しい適用のようで、いかにももっともらしく聞こえる。しかし、実際のところこれは白を黒と言いくるめる詭弁の類にすぎない。確かに弁証法は、白は白、黒は黒といった硬直した対立を退け、白と黒が相互に転化するという運動を認める。しかし、弁証法は運動の特殊なあり方としての静止を否定するものではない。白は白、黒は黒という固定観念にしばられてはならない場合もあれば、白黒はっきりさせなければならない場合もある。自衛隊が「対米従属の軍隊、違憲の軍隊、国民抑圧の軍隊でアジアの平和と日本の安全を脅かす危険な存在」(日本共産党第十二回大会)という性格を持っている限り、これを「国民の安全のために活用」(第二十二回大会)などできるわけがない。この点については白黒はっきりさせる必要がある。
 弁証法の核心は、レーニンの言うとおり、対立物の統一である。白と黒の相互転化について問題にするには、白は白、黒は黒という固定観念にしばられてはならない場合と、白黒はっきりさせなければならない場合とを統一してとらえるのが弁証法的なものの見方である。このような見方をしなければ、どういう条件において白が黒に転化し黒が白に転化するか、その相互転化の運動の法則性をとらえることはできない。そもそも弁証法とは、自然・社会・精神をつらぬく一般的な運動法則についての科学である。たんに万物が運動しているというだけでなく、その運動には一定の法則性があるということこそが、科学としての弁証法にとって重要なのである。
 ところが不破は、白は白、黒は黒という固定観念にしばられてはならない、というそれ自体としては正当な命題を度外れに拡大し、白黒はっきりさせなければならない領域にまで持ち込んでしまう。こうなれば、どんなにひどい政治的変節や無節操であろうと、弁証法の名のもとに合理化されることになってしまう。しかし、白を黒と言いくるめるのは詭弁であって決して科学ではないのである。

2、不破の牧歌的な市場経済論

市場の暴力的作用を素通り

 次に、市場経済論についての不破の提起について検討しよう。
 不破は、経済学の商品論について説明した部分で、「市場経済の効用」として、価格を平均化する作用、需要と供給の調節作用、競争によって生産性の向上を促進する作用をあげている(八七ページ〜)。特に需要と供給の調節作用については、どの大きさの靴がだいたい何足必要かぐらいは市場経済によらず決定できるにしても、どういう色の靴、どういうタイプの靴がどれだけ必要かということになると、国民一人一人の色や形の好みが千差万別で刻々変化する以上、どんなコンピューターも手に負えないだろうとして、そういう調節作用を「日常の仕事として平然とやってのけている」市場経済を高く評価している。『前衛』編集長の足立正恒にいたっては、この不破の提起について、『前衛』二〇〇二年七月号に掲載された「『科学的社会主義を学ぶ』(不破哲三著)のすすめ」で、「市場経済を人類がつくりだした大事な英知のひとつとしてとらえるべきだという提起」としているほどである。
 人間生活にかかわるあらゆるものを商品化してしまおうという新自由主義の攻勢が強まり、市場にまかせればすべてうまくいくという新自由主義的イデオロギーとの闘争が重要な課題となっているこの情勢のもとで、共産党の最高幹部からこのような市場経済への賛美の声を聞くとは大変な驚きであると言わざるを得ない。
 そもそも市場経済とは、自然発生的な社会的分業のため、社会におけるそれぞれの生産者が、相互に依存し合いながらも、直接的な連関を欠いている経済である。生産者相互の社会的連関は、市場における労働生産物の交換を媒介にしなければならない。つまり、それぞれの生産者の労働が社会的に必要とされるものであるかどうかは、労働生産物を市場に出してみて実際に売れるかどうかということでしか確認できないのである。
 そこにあるのは社会的生産の無政府状態である。市場による需要と供給の調節作用は、景気の過熱や恐慌を不可避的にともなうものであり、こういう暴力的な作用によって多くの人々の生活を破壊することなくしては機能できないのである。決して「日常の仕事として平然とやってのけている」などという牧歌的なものではない。
 ところが不破は、こうした市場の破壊的作用については、市場の調節作用を高く評価したうえで、「もちろん、市場の需要を思惑的にあてこんで、特定の種類の靴を大量につくり、あてがはずれて失敗するといったことは、市場経済の否定面として、たえず起きていることです」とごく控えめに付け加えているにすぎない。不破は、市場の調節作用に高い評価を与えたいがために、調節作用とその「否定面」とを頭の中で機械的に切り離してしまっているのである。
 しかし、現実には、両者はコインの裏表のように決して切り離すことができない関係において存在している。「市場経済の否定面」の背後には、倒産、失業、借金苦、自殺等々の人々の苦難が隠されているのである。そのことについて少しでも想像力を働かせてみるならば、市場経済について「人類がつくりだした大事な英知」などとはとても言えないはずである。
 人類にとって、社会的生産の無政府状態を克服し、社会全体および各個人の必要に応じた生産の社会的・計画的規制におきかえることこそが、非常に重要な課題なのである。

市場を克服するための闘い

 市場経済の調節作用をほとんど手放しで評価する不破は、社会主義に前進していく途上において市場経済を認めることの重要性を力説している。
 不破が、社会主義建設における市場経済の必要性の重要な根拠としてしばしば持ち出すのが、先ほどの靴の例である。つまり、靴全体のだいたいの数は計画できても、色や形については計画できないから、市場経済が必要だということなのである。ここで、この靴の例について検討しておこう。
 まず、色や形について全く計画できないかのように考えるのは正しくない。現在でも「今年の秋は何々が流行る」といった類の予測はなされているのであり、ある程度の予測は決して不可能ではない。靴全体の数にくらべると色や形の方が相対的に予測が困難であるにすぎない。
 さらに言うなら、一人一人の色や形の好みが刻々と変化するという現実を無批判に肯定し、これを計画経済の是非について考える前提にしてしまっていることも問題である。アメリカの経済学者ガルブレイスが「依存効果」という言葉であきらかにしたように、資本は大量の広告・宣伝によって消費者の欲望を操作する。このような、大量生産・大量消費型の資本主義システムを維持するために操作された需要のあり方を前提にして、社会主義的な計画経済を構想することはできない。社会主義社会は、資本によってあおられ操作された需要ではなく、真の必要にもとづいた民主的計画を基礎にして、生産と消費が行なわれる社会なのである。
 もちろん、市場の調節作用を計画によって一挙におきかえてしまうことはできない。机の前で頭をひねって考えだした計画によって経済を運営することはできない。社会主義経済の建設にあたって市場を活用する必要性はここにある。たとえ生産手段が社会化されても、市場の克服にはなお長期にわたる過程が必要なのである。
 社会化された生産部門は、孤立的・閉鎖的な存在ではなく、市場を通じて他の企業・部門と結びついている。作成された計画は、市場において点検され、規制される。計画と現実との間に食い違いがあれば、計画を修正しなければならない。社会化された部門は、このような過程を繰り返すことによって、市場における需要と供給の変動を予測するすべを身につけていく。また、こうした現実との対決を通じて計画の能力を高めながら、計画の原理を次第に市場全体に広げていくことによって、諸々の企業・部門相互の関係を合理的に調整することができるようになっていく。つまり、最終的に生産の無政府性を克服することが可能になるのである。社会主義建設における市場と計画の関係は、はじめは計画が不可能であり市場に頼らざるを得なかった部分が、経験を通じて次第に計画におきかえることが可能になっていく、という運動においてとらえられなければならない。
 ところが、不破の靴の例においては、色や形については「どんなコンピューターも手に負えない」とされてしまう。つまり、計画が不可能な領域の存在が、静止した形において認められてしまうことになるのである。こうなれば、結局のところ、市場経済は永続する――それもかなりの広範囲にわたって――という結論にならざるを得ない。
 市場経済が永続するとなれば、社会主義とは、計画的な要素をある程度導入することによって「市場経済の否定面」を緩和したもの、公的部門と私的部門が併存する「混合経済」的なものでしかない、ということになってしまう。つまり、市場経済論のレベルから、社会主義概念に修正資本主義的粉飾が施されることになるのである。

「社会主義市場経済」とは

 こうした不破の「社会主義」観は、中国の「社会主義市場経済」への高い評価としても現れている。不破は、「社会主義市場経済」がレーニンの「新経済政策」と同じ流れにそったものだと評価するのである。
 「新経済政策」においては、それが社会主義への道を切り開くのか、それとも資本主義の全面復活に道を開くのかということが、極めて重大な問題としてとらえられていた。例えばトロツキーは、コミンテルン第四回大会への報告「ソヴィエト・ロシアの新経済政策と世界革命の展望」(トロツキー『社会主義と市場経済』大村書店)において、「新経済政策」が資本主義復活への過渡期とならないための条件について述べている。
 そこでは、国家が鉄道・鉱業・製造業などの重要な部門をにぎり、土地を所有し外国貿易を独占することによって経済過程を統制していること、また何よりも、この国家権力が労働者階級の手中にあることが重視されている。つまり、労働者階級が国家権力を通じて市場をコントロールできるか否かが決定的に重要だと考えられていたのである。
 このような観点から、中国の「社会主義市場経済」を「新経済政策」と同じ流れにそったものだと評価できるであろうか? 中国では、かつて八〇%を超えていた国有企業の生産に占める割合は、現在三〇%強に低下している。近年の中国経済の高度成長の主動力となったのは、国内の私的資本および外国資本であり、国有企業は「お荷物」的存在になってしまっている。
 このような状況において資本の支配が強まっているにもかかわらず、これと対決する労働者の団結権は認められず、自主労組結成などの労働者の闘いは弾圧の対象となっている。国有企業においても、賃金未払いや大量解雇に対して労働者の大規模な抗議行動が起きているが、政府が弾圧をもってこれに対していることは、「かけはし」紙上で繰り返し報じられているところである。
 現在の中国では、労働力市場が形成されているばかりか、金融・証券市場や不動産市場までもが形成されている。一方で、外国貿易の国家独占などすでに存在しない。WTOへの加盟は外国資本の一層の流入を刺激し、自由な活動を容認された外国資本はますますその支配を強めていくであろう。
 現在の中国について、国家がこれらをコントロールできる状態にあるとはとても言えない。ましてや、その国家は、資本の支配に抵抗する労働者の闘いを弾圧しているのである。労働者階級が国家権力を通じて市場をコントロールすることはほとんど不可能である。
 不破は、このような「社会主義市場経済」と名づけられた中国経済の現状を「新経済政策」と同じ流れにそったものと評価し、中国を「社会主義をめざす国」と規定しているのである。もちろん不破は、中国と日本では事情が違う、日本は日本なりの道で社会主義をめざすのだ、と主張するだろう。しかし、不破の「社会主義」観が、資本の支配が全面的に復活しつつある中国の現状への肯定的な評価を下す根拠となるようなものでしかないことは確かなのである。 (つづく)


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