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不破哲三『科学的社会主義を学ぶ』批判(2)       かけはし2002.9.30号より

「資本主義の枠内での改革めざす国民政党路線」の理論的粉飾

樋口 芳広(日本共産党員)



3 資本主義の根本矛盾についてのエンゲルスの定式への批判

不破によるエンゲルス批判

 エンゲルスは、『空想から科学へ』において、資本主義の根本矛盾を「社会的生産と資本主義的取得との矛盾」という形で明快に定式化した。この定式は、日本共産党内においてこれまで当たり前のように使われてきた。党大会決定に引用されたこともあるし、不破自身も繰り返し取り上げてきた。ところが不破は、本書巻末の「一問一答」において、この定式に対して以下の三つの疑問を提示している(一七二ページ〜)。
 第一。エンゲルスの「生産の社会的性格」という言葉では、「生産のための生産」という資本主義的生産の突進的な性格を的確に表現しきれていない気がする。
 第二。エンゲルスは、「プロレタリアートとブルジョアジーの矛盾」を資本主義の根本矛盾の現象形態として位置付けているが、この階級的矛盾は資本主義の成り立ちの根本であり、経済体制の矛盾の現象形態などではないはずである。
 第三。エンゲルスは、根本矛盾の現象形態として「個々の工場における社会的組織と総生産における社会的無政府状態との矛盾」をあげ、これによって恐慌を説明しようとしているが、これは「恐慌の可能性」の次元だけでの議論であって、いかに「恐慌の現実性」に転化するかが示されていない。
 このようにエンゲルスの定式を批判した不破は、マルクスの『資本論』における議論を彼なりにまとめ、@階級的な矛盾――資本主義と社会の多数者との矛盾、A体制としての矛盾――生産のための生産、という新しい定式を提起する(一〇九ページ〜)。
 すなわち、利潤第一主義の支配が、労働者を犠牲にし、小生産者を没落させ、弱小資本家を淘汰し、社会の圧倒的多数者との矛盾を深めていく。同時に、経済拡大への激しい衝動が、労働者の低い購買力などの資本主義の生産関係の狭い枠組みと衝突し、恐慌などの破壊作用を引き起こす、というのである。

不破の批判はすべて的外れ

 不破の提起は、エンゲルスの定式の問題点を鋭く突いているであろうか? それぞれ検討してみよう。
 第一。社会的生産の基礎上で資本主義的取得がなされること、すなわち、多数の労働者の協業によってはじめて動かすことのできるほど大規模になった生産手段が、それを所有する資本家によって少しでも大きな利潤を獲得することを目的にして動かされることこそが、資本主義的生産の「生産のための生産」という突進的な性格を生むのである。
 つまり、エンゲルスの定式は、「生産の社会的性格」と「取得の資本主義的性格」(=剰余価値の獲得を目的にした取得)とを統一してとらえていることに重要な意味があるのであって、不破のように前者のみを取り出してエンゲルスを批判するのは筋違いである。
 第二。労働者は社会的に生産するにもかかわらず、その生産物は生産手段を所有する資本家によって取得されてしまうという生産のあり方こそが、「プロレタリアートとブルジョアジーの矛盾」を生むのである。
 そもそも階級とは、生活の生産――生活資料の生産とそれを消費することによる人間の生産――における地位の違いによって区別された社会的集団のことに他ならず、生産のあり方と無関係に階級なるものが中空に浮いて存在するわけではない。この意味で、不破の主張とは全く逆に、階級的矛盾は経済体制の矛盾の現象形態なのである。不破のように、生産のあり方と切り離して階級対立を云々するのはナンセンスである。
 第三。「恐慌の可能性」と「恐慌の現実性」を媒介するのは、資本主義的生産の「生産のための生産」という突進的な性格、および労働者の低い購買力などによるせまい市場の限界である。不破は、これらがエンゲルスの定式によっては説明できないかのように述べているが、こうした主張が詭弁以外のなにものでもないことは、第一、第二の疑問について述べたところからあきらかであろう。
 要するに、不破のいわゆる「マルクスの定式」とエンゲルスの定式は、前者が資本主義の現象レベルでの姿をとらえたものであり、その現象がよって立つ構造に分け入ってみれば後者につきあたる、という関係にあるのである。不破はこのような関係を理解できずにか意図的にか無視し、エンゲルスに対して筋違いの批判を提起しているのである。それは、風邪について「身体全体の細胞が弱まって、細菌やウイルスに侵される」という定式を批判し、「熱がでる」、「咳や鼻水がでる」という定式におきかえるように主張するようなものである。
 不破のように、資本主義の構造と切り離したかたちで現象レベルの姿のみを云々することは、資本主義のさまざまな弊害を「枠内改革」的な対策で解決できるかのような幻想を生み出す。ちょうど、咳止め薬を投与して咳さえ抑えれば風邪が治る、というように。不破が新たに提起した定式は、「根本矛盾」を現象レベルにまでずらして把握することにより、「枠内改革」論の理論的根拠を「根本矛盾」のうちに見い出そうとするものである。

エンゲルス批判の行きつく先は

 不破のエンゲルス批判は、「枠内改革」路線を「科学的社会主義」の名において正当化するにとどまらず、現行綱領が社会主義建設にあたって規定している「労働者階級の権力の確立」や「生産手段の社会化」の全面的な放棄にまで突き進む可能性を持っている。
 従来、日本共産党綱領の二段階革命論においては、独占資本家とそれ以外の社会の多数者との矛盾も「ルールなき資本主義」の横暴も、エンゲルス的な意味での「資本主義の根本矛盾」とは異なるレベルの矛盾として把握されていた。ここから、「根本矛盾」を止揚する社会主義革命よりも前に、民族民主統一戦線政府の樹立による反独占民主主義の実現という民主主義革命を成し遂げることが展望されていたのであった。
 しかし、不破はここに至って、それらこそが「根本矛盾」であると主張し始めたのである。「枠内改革」が「根本矛盾」によって根拠づけられるとするなら、「枠内改革」の対象と異なるレベルの矛盾などそもそも想定されない。労働者階級による国家権力の掌握も社会経済体制の社会主義的な変革も必要なくなってしまうのは必然である。

社会主義建設は「国民的事業」?

 エンゲルスの定式では、労働者階級と資本家階級の対立を「根本矛盾」の現象形態としてとらえているから、労働者階級こそが資本主義を打ち倒す主動力だということになる。一方、不破の定式では、階級対立を生産のあり方と切り離したかたちでとらえているため、労働者階級ばかりでなく、農民、自営業者などの小生産者や中小資本家などもすべて資本主義の犠牲者である以上、すべて同じように社会主義を目指しうるということになってしまう。曰く、社会主義の事業そのものが国民的な性格をもっている、と。「資本主義と社会の多数者の矛盾」というとらえ方は、「日本共産党は、労働者階級の党であると同時に、日本国民の党」という規約の規定を理論的に根拠づけようとするものである。
 はたして、社会主義の建設は「国民」的な事業たりうるのであろうか? まず確認されなければならないのは、先にも述べたとおり、階級対立を生産のあり方と切り離して論じるのはナンセンスだということである。そもそも資本主義社会とは資本主義的生産様式が支配している社会のことであり、この生産様式は、生産手段を所有する資本家が自己の労働力以外売るべきものを持たない労働者を賃金を払って雇い入れて生産をおこなうところに特質がある。社会的なものになった生産手段は労働者階級の手によってしか動かせないにもかかわらず、その生産手段は決して労働者階級のものではないのである。ここから、生産手段を社会全体の管理のもとにうつす社会主義的変革の主動力は労働者階級に他ならないという結論が出てくる。
 確かに、一口に労働者階級といっても均質ではない。例えば、多国籍化した大企業の正規従業員と零細企業の労働者とでは、かなり異なった政治的意識を持っているであろう。しかし、このことは、これら労働者が階級として団結する可能性を否定するものではない。いわゆる「勝ち組」の上層労働者であっても、自己の労働力を売って生活していることに変わりなく、長時間・超過密労働に苦しめられ、企業が「大競争時代」に勝ち残るためのリストラの脅威にさらされているからである。
 それでは労働者階級以外の階級・階層はどうか? もちろん、小生産者や中小資本家も、資本主義のもとで生活を破壊されている面がある。とりわけ新自由主義の攻勢が激化している現代ではそうであるし、生活破壊の度合いは上層の労働者以上ともいえよう。また現代では、地球環境問題のような、特定の階級をこえて人類全体を脅かす問題の存在が、反資本主義的意識の形成を促す可能性を大きく持っていることも無視できない。
 反新自由主義的意識あるいは反資本主義的意識は社会主義的意識とは一応区別されなければならないが、労働者階級以外の諸階級・階層もある範囲では社会主義的変革を支持することはありうるし、そうであるならば社会主義的変革を掲げた政権から排除されるわけではない。その意味では、社会主義建設は労働者階級の単独の事業ではないという不破の主張にもそれなりの根拠がある。
 しかし、だからといって、まがりなりにも自己の生産手段を所有している小生産者や中小資本家を、自己の生産手段を持たない労働者階級と全く同列に並べて社会主義的変革の主体と見なすのは無理がある。やはり労働者階級こそが、資本主義の弊害に苦しむ諸階級・階層の先頭に立って、社会主義的変革を成し遂げる歴史的使命を持っていると見るべきなのである。
 以前は不破も、労働者階級こそが社会主義的変革の主動力であることについて説明していた。こうした説明の根拠になるのは、階級的利害はその階級の生活の生産における地位の違いによって異なってくることの把握である。しかし、不破によって新たに提起された階級対立の定式は、階級関係を生産のあり方から切り離し、諸々の階級・階層それぞれの内的特質をさっぱり規定せずにひとまとめにした結果、労働者階級とその他の諸階級・階層との差異を見い出せなくしてしまった。不破の定式は、純然と明瞭な独占資本家以外の諸階級・階層を、空虚に一般的な抽象性においてとらえているにすぎないのである。
 このことは具体的な社会構造の分析という面倒な作業を事実上放棄してしまっていることを意味する。しかし、共産党のように社会変革をめざす政党にとって、それは本来死活的に重要な作業のはずである。とりわけ、企業社会と自民党型利益誘導政治という従来の支配体制が行き詰まり、「国民」内部の階層分化が進展している現在の日本の情勢のもとにあってはそうである。あたかも均質な「国民的利益」なるものが存在するかのような不破の発想は反動的な幻想というほかない。
 新自由主義的グローバリゼーションは、それによって生活を破壊される諸階級・階層の闘争の合流のための基盤を作りだす。しかし、その一方で、新自由主義の秩序の安定性が、被抑圧諸階級の階層化および分断に依拠していることを無視するわけにはいかない。こうした階層化・分断の状況の徹底的な究明なしには、闘争の合流は達成できないのである。不破の定式は、こうした必須の作業の欠如、いいかえれば共産党の指導者としての怠惰を正当化する理論的根拠を築いてしまっているのである。

生産手段の社会化をめぐる矛盾

 エンゲルスの定式は、資本主義の生みだす諸々の害悪の根源に生産手段の私的所有を見ているから、これを解決するためには生産手段を社会全体の管理のもとにおく必要があるということになる。しかし、不破の定式のように利潤第一主義による「生産のための生産」が根源だとするならば、生産手段の私的所有に手をつけずとも、「民主的規制」によってこれを克服することも可能だということにもなりかねない。少なくとも「生産手段の社会化」は論理的な帰結としては出てこない。
 確かに、不破は社会主義建設にあたって生産手段の社会化が必要不可欠だということをいまだ否定していない。本書一四二ページには次のような記述がある。
 「生産が、生産者の大規模な協業によっておこなわれ、一国全体だけでなく、世界市場をも対象にするところまで、生産が社会的になっているのに、生産手段が個々の資本家や私企業ににぎられ、その生産物もすべて個々の資本家あるいは私企業の所有となっている、この『資本主義的私的所有』のうちに、利潤第一主義をはじめ、資本主義のあらゆる矛盾の根源がありました。
 ここからまず出てくるのは、この矛盾と害悪を乗り越えた新しい社会は、この矛盾を、生産手段の社会化――生産手段をその社会的性格にふさわしく、社会にうつすという形態で、解決しなければならない、という結論です」。

 しかし、この記述は極めて奇妙なものである。ここで不破が述べているのは、彼が散々批判していたエンゲルスの定式そのものだからである。このことは、「生産手段の社会化」が不破の定式からは出てこないこと、それはエンゲルスの定式によってこそ根拠づけられるものであることを、はからずも証明してしまっている。不破の真意はつかみ難い。彼の意識の中で自身のエンゲルス批判がいまだ徹底されておらず、ちょっとした不注意で口を滑らしてしまったのであろうか?
 それとも、社会主義の理念を捨てていない党員との折り合いをつけるために、ほんのつけ足し程度のつもりで社会化の問題に――あえてエンゲルスの定式を根拠にして――触れてみたのであろうか?
 いずれにせよ、「枠内改革」論を正当化するためのエンゲルスの定式への批判と、そのエンゲルスの定式を根拠にした社会化への言及との併存は、はなはだしい論理的混乱であり、不破はこれを何とかして解消しなければならない立場に置かれている。
 これを解消するためには、「生産手段の社会化」の概念を「生産の社会性と生産手段の私的所有」の矛盾の解決というレベルからではなく、「生産のための生産」の克服というレベルから再構成することによって、「生産手段の社会化」と「大企業への民主的規制」とを同一視することが考えられる。
 すなわち、「大企業への民主的規制により、国民生活の利益のために大企業の巨大な生産力をコントロールすることこそが、現代日本特有の生産手段の社会化の形態だ」というように、である。不破が本書と同時に出版された『日本共産党綱領を読む』において、綱領は社会化の対象を「大企業の手にある主要な生産手段」に限っているとか、綱領は社会化の具体的な形態は何も決めていない、と強調しているところからも、このように推測されるのである。
 もちろん、「生産手段の社会化」を「国有化」と単純に同一視するわけにはいかないことはソ連の経験からしてもあきらかであるし、そういったこともふまえて、社会化の具体的な形態について多くの可能性を探求したいと考えること自体は正当である。しかし、不破のエンゲルス批判が、「生産手段の社会化」の概念の際限のない後退に道を開いてしまっていることだけは、ここで厳しく指摘しておかなければならない。

財界と共同しうる社会主義とは

 不破は最近、資本主義は地球の管理能力を失った、二十一世紀は資本主義をのりこえる新しい社会体制への条件が成熟する世紀になるだろう、と繰り返し述べ、社会主義の展望についてかなり積極的に語っている。日本共産党が選挙で躍進につぐ躍進を重ね、民主党との連立政権を公然と追求していた頃は、社会主義についてできるだけ隠そうとしていたようだが、最近はこうした様相が一変してしまった観がある。
 しかし、問題なのはその社会主義の中身である。不破のエンゲルス批判から見えてくるのは、不破のいわゆる「社会主義」とは、結局のところ「修正資本主義」とたいして変わらないシロモノらしい、ということである。 日本経済に現実に影響力を及ぼしている大企業の集団に民主的規制をくわえ、その巨大な経済力を日本の国民経済的利益のために活用しよう――せいぜいこの程度のものである。
 先に、不破が市場経済論のレベルから社会主義概念を修正していることにについて検討したが、ここでは、「資本主義の根本矛盾」のレベルからそれがなされているわけである。結局、不破のいわゆる「社会主義」は、「枠内改革」と同じく、良識ある財界人とも一致しうるものである、ということになりかねないものなのでしかないのである。
 では、なぜ不破は最近「社会主義」について喧伝しているのであろうか? それは、近い将来に予定されている綱領改定への布石であると思われる。この綱領改定は、改良主義的国民政党への転換を完成させようとするものであるが、少なくない党員が、いまだそれぞれなりに社会主義への信念を保持しつづけており、社会主義革命の公然たる放棄にはそれなりの抵抗が予想される。そこで不破は、「社会主義」の展望について積極的に語ることでこれらの党員の目をごまかしながら、エンゲルス批判などの理論的作業によって「社会主義」概念の実質的な修正をはかっていると推測されるのである。不破のこのような隠された意図をくじくためにも、彼のエンゲルス批判のデタラメ振りは厳しく批判されなければならない。(つづく)


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