| 日米安保改定50年――その形成と歴史的変遷(上) かけはし2010.6.7号 |
| 戦後日本の「国体」=日米安保成立過程と政治背景をさぐる |
一九六〇年の日米安保改定から五十年をむかえる。日米安保は、今や当初の性格を大きく変えて「グローバルな日米軍事同盟」の基盤になっている。この文章は近刊の『ピープルズ・プラン』誌50号のために筆者が書いた文章にごくわずかの補足を加えたものである。「安保破棄」の闘いのためにぜひ検討してほしい。
はじめに――「日米安保
条約」から「日米同盟」へ
今年は一九六〇年の日米安保条約改定から五十年にあたる。天皇制日本帝国主義の敗戦による米軍の占領を、米ソ対決=冷戦構造と朝鮮戦争の中で事実上そのまま継続した日米安保の枠組みは、一九六〇年の改定を経てその実態を大きく変容させながら戦後日本の軍事・外交政策を根本的に規定するものとして今日にいたるまで継続している。
しかし現在では「日米安保条約」という用語は後景に退き、「日米同盟」という言葉が意識的に流布されている。用語の変化には「日米安保」の実態上の変質が刻印されているのである。
一例を挙げよう。一九九六年四月の橋本首相とクリントン米大統領との会談で打ち出された「日米安全保障共同宣言」は日米安保の「極東条項」の枠組みをアジア太平洋全域にまで拡大するものだったが、同宣言ではいまだ「日米安全保障条約を基盤とする両国の安全保障上の関係が……アジア太平洋地域において安定的で繁栄した情勢を維持するための基礎」という言い回しで、国連憲章と国連の集団的安全保障に基礎づけられた「日米安保条約」についての言及が見られる。
しかしそれから九年後の二〇〇五年十月に発表された「日米同盟・未来に向けた変革と再編」(いわゆる「米軍再編」中間報告)では、冒頭に「日米安全保障体制を中核とする日米同盟は、アジア太平洋地域の平和と安定のために不可欠な基礎である」との位置づけがされている。「日米安全保障条約」は「日米安全保障体制」に置き換えられた。二〇〇六年五月の「米軍再編」ロードマップ(最終報告)では、さらにそれが「日米安全保障関係を中核とする日米同盟」という文言となった。米軍再編ロードマップの内容の閣議決定(2006年5月31日)でも「在日米軍の駐留は日米安全保障体制の中核」とされたが「日米安全保障条約」という言葉は一言も出てこない。「日米安保条約」は意識的に排除されているのである。
「日米同盟」が外交上の公式の用語として初めて使用されたのは、一九八一年五月に訪米した鈴木善幸首相と、この年一月に就任したばかりのレーガン米大統領との会談で発表された日米共同声明においてであった。同声明は「日米両国の同盟関係は、民主主義及び自由という両国が共有する価値の上に築かれていること」を確認し、「両者は、日本の防衛並びに極東の平和及び安定を確保するに当たり、日米両国間において適切な役割の分担が望ましい」とうたった。
ここで問題となったのは、「日米両国間の同盟関係」と「適切な役割の分担」の意味である。後者の「適切な役割の分担」について鈴木首相が述べたのは「1000海里シーレーンの防衛」であり、これはそれ以後の対米公約となった。しかし「日米両国間の同盟関係」については鈴木首相が共同声明後の日本人記者団との会見で「同盟に軍事的意味合いはない」と語ったことで大きな政治問題となった。鈴木首相の弁明に対して高島益郎外務事務次官は「軍事的な関係、安全保障を含まない同盟関係はナンセンスだ」と批判し、ついに伊東外相が辞任する事態にまで発展した。ここで見られる日米間の齟齬は、一九八三年一月の中曽根首相訪米の際の日米首脳会談での「日米運命共同体」発言や、「ワシントン・ポスト」とのインタビューでの「日本列島不沈空母化」「四海峡封鎖・シーレーン防衛」発言によって解決され、以後、「日米同盟」は、六〇年安保の枠組みを越えた米国の世界戦略全体に組み込まれた日米間の「分担・協力」を意味する用語として定着することになった。
本稿では、「日米同盟」という言葉に表現される戦後の日米安保の現実としての質的変遷を簡潔にたどり、「安保改定五十年」をめぐる現在の問題にふれることにしたい。
対日講和条約と日米安保
条約――天皇裕仁の役割
アジア・太平洋戦争の末期に熾烈な地上戦によって沖縄を「本土」侵攻の戦略的軍事拠点にするために沖縄全土を占領し一元的な軍事支配下に置いた米国は、日本の敗北後も沖縄への直接的占領支配を強化した。一九四七年以後ソ連との世界的な対立構造が激化し、朝鮮半島の三八度線による南北分断と一九四九年の中国革命の勝利によって東北アジアの軍事的緊張が激化する中で、米国は占領当初の「日本非武装化」の方針を転換することになる。すなわち対日講和条約以後の日本の「安全保障」を米国の駐留継続と朝鮮半島・中国を見据えた軍事拠点化、憲法九条体制下での日本「再軍備」の漸次的推進として構想するようになった。
講和発効以後も沖縄を日本の施政権から切り離し、全島軍事基地として米国の直接軍事支配下にとどめるという戦略は、早くも新憲法施行直後の一九四七年五月六日に行われた天皇・マッカーサーの第四回会談で話し合われた内容を基礎に、一九四七年九月の「寺崎メモ」で示された天皇のメッセージ、すなわち「天皇は、アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。……さらに思うに、アメリカによる沖縄の占領は日本に主権を残存させた形で、長期の――二五年から五十年ないしそれ以上の――貸与をするという擬制(フィクション)の上になされるべきである」との見解と符合するものである。
一九五〇年六月二十五日の朝鮮戦争勃発は、同年の初めまで講和後の日本の安全保障を国連に担保された日本の非武装化に委ね、「本土」における米軍駐留の終了に固執していたとされるマッカーサーの方針をも最終的に転換させることになった。
講和後の日本の安全保障について「講和条約と同時に、特別協定を結んで日本の防備を米国に委ねる」という方式を最初に提示したのは一九四七年九月の「芦田書簡」であったが、実はこの点でも先に述べた天皇・マッカーサー第四回会談での天皇の見解が反映している。この時、天皇は「日本の非軍事化」と「国連の役割の強化」こそ講和後の日本の安全保障の基礎と主張するマッカーサーに対して、「日本の安全保障を図るためにはアングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアティブをとることを要する」と、米国に完全に依存・従属した安全保障という、その後の第一次安保につながる論理を強く主張した(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫 2008年)。天皇裕仁は、その意味で日米安保体制の最初の提唱者だったのである(千本秀樹『天皇制の戦争責任と戦後責任』青木書店、1990年)
一九五一年九月八日に調印された第一次日米安保条約は「日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する」(前文)として米国への基地提供・占領継続を申し入れ、本文第一条では米国の陸海空軍を「日本国内およびその附近に配備する権利」を日本が「許与」し、米国はそれを「受諾」するという構造になっている。さらに米軍は駐留を「許与」された軍隊を、「極東における国際の平和と安全の維持に寄与」し「日本国における大規模の内乱及び騒じょうを鎮圧する」ためにも「使用することができる」、と規定しているが、「外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与」のためにも同様に「使用することができる」としているだけであり、明確な「日本防衛」の規定は存在しなかった。すなわち米国は自らの戦略的要請に合わせて提供された日本「本土」の米軍基地を自由に使用することが可能な一方、米国は明示的な「日本防衛」の義務を負わないという、まさに「片務的で従属的な」条約だった。それは二国間の条約というよりは米国のアジア戦略のために日本に米軍を駐留させる「駐軍協定」の性格を色濃く持っていたのである。
その背景には日本が米国に基地提供と軍駐留を「オファー」するという方式を一貫して追求し、吉田首相の外交交渉の足を引っ張る「二重外交」を展開した天皇裕仁の意思があることを、豊下楢彦は『安保条約の成立』(岩波新書 1996年)の中で説得的に述べている。
一九五二年四月二十八日に対日講和条約とセットで発効した第一次安保条約は、占領と「日本非武装化」、そして日本の施政権から切り離された沖縄の米軍による単独軍事支配の時代から、本格的な米ソ冷戦の開始と朝鮮戦争の勃発を契機に、アメリカのイニシアティブの下で日本を東アジアにおける西側陣営の一員に組み込んだ上で「独立」を許容し、その経済的・軍事的役割を発揮させていく「移行期」の産物だったといえるだろう。
「密約」を必然化させた
六〇年安保改定交渉
第一次安保条約の改定交渉は、保守合同による自民党単独支配体制の確立(1955年)による政治体制の安定化と「神武景気」による本格的な経済成長の開始、日本の国連加盟(1956年)、朝鮮戦争の休戦(1953年)とインドシナ戦争の終結(1954年)を経たソ連のフルシチョフ体制の成立と米ソ対立の相対的な緩和といった国際的・国内的情勢の変化を背景に、一九五七年に成立した岸政権の下で本格的に進められた。
第一次安保後の、米国側の対日戦略はどのようなものだったのだろうか。
「米国にとって日本はまず、琉球、フィリピンなどに連なる島嶼防衛線の一部であり、米国の安全保障にとって欠かせない重要性を持つ。日本を通常兵器で再武装させて米軍の負担を軽減し、いずれは北部の島嶼防衛線で、自由諸国のために貢献させることが米国の国益にかなう。だが独立した日本はいずれ、自立の動きを強め、米ソを張り合わせたり、共産中国と貿易をしようと企てるかもしれない。アジアで再び覇を唱えるかもしれない。米国はそうした企てを阻み、日本の独立を尊重しながら、米国との強固な同盟関係に立つ日本を育成する」(外岡秀俊 本田優 三浦俊章『日米同盟半世紀 安保と密約』朝日新聞社刊 2001年)。
鳩山内閣の下で一九五五年八月に行われた重光外相とダレス米国務長官との会談で、重光が「共産主義の宣伝工作と闘う」ために「不平等条約」である安保改定を提起したのに対し、ダレスは「日本の軍備拡充」が先行すべきであり、かつ「日本の憲法が海外派兵を許さない状況では真の日米パートナーシップはない」として安保改定の提案を一蹴した。ダレスはこの時「グアムが攻撃された時、日本は防衛にかけつけてくれるのか」と述べたという(前掲『日米同盟半世紀』、原彬久『岸信介―権勢の政治家―』岩波新書、1995年など)。
岸首相が初の訪米を行った一九五七年六月には、米国の態度も大きく変化していた。米国のビキニ水爆実験によるマグロ漁船第五福龍丸の船員・久保山愛吉さんの被曝死を契機にした原水爆禁止運動の急速な拡大、一九五五年から展開された米軍基地拡張に反対する砂川闘争の高揚、そして米軍の土地強制収用とその固定化に反対する沖縄の「島ぐるみ」闘争がその背景にあった。当時のマッカーサー駐日米大使は、日本の「対米感情の悪化」を指摘し、安保条約の改定、十年をメドにした沖縄・小笠原に対する米国の権利の放棄という見解をダレス宛報告電報で書き記している。
日米安保改定は「集団的自衛権」に基づく双務的な相互防衛条約としてではなく、国際連合憲章と二国間条約としての日米安保の関係を規定した上で、「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処する」(第五条)、「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」(第六条)と述べ、「本土有事」での米国の「日本防衛義務」と朝鮮半島、沖縄、台湾、中国を含む米国の軍事作戦を展開する拠点として日本国内の基地を使用する権利を規定したものであった。
また同六条の実施に関する交換公文(岸・ハーター交換公文)において、「合衆国軍隊の日本国への配置における重要な変更並びに日本国から行われる戦闘作戦行動(五条の「本土有事」に伴う作戦行動を除いて)のための基地としての日本国内の設置及び区域の使用は、日本国政府との事前の協議の主題とする」とされた。いわゆる「事前協議」規定である。「事前協議」規定によって日本国内への核兵器の配備・持ち込みは「重要な変更」とされ、また例えば朝鮮半島や台湾海峡などへの日本からの「戦闘作戦行動」も「事前協議」の対象となると説明されてきた。この「事前協議」によって日米両政府の「対等性」が担保されるとも言われてきたのである。
しかしこの「事前協議」にすべて「密約」がまとわりついていたことは、今年三月に発表された外交密約に関する有識者委員会報告によっても部分的にではあっても公式に認められた(有識者委員会報告の評価については、結局「密約」の全貌を明らかにするどころか、むしろ「密約」という政治犯罪を正当化し、隠ぺいするものと言わねばならないが)。すなわち核兵器を搭載した艦船の自由寄港、朝鮮半島有事の際の米軍による日本本土の基地からの自由出撃である。そして沖縄は改定新安保の下で、「本土」から海兵隊が移転し、「本土」からの米陸上部隊の撤退、基地縮小を補完するものとして広大な基地が新設あるいは拡張され、核兵器も基地内に保有されていた。
こうした「密約」は、憲法9条の存在と、ヒロシマ・ナガサキを体験した日本民衆の反核感情を日米安保と「共存」させるために必然化されたのだった。すなわち六〇年安保闘争に示された民衆の運動が、「密約」という欺瞞を強制したというべきである。
(つづく)(国富建治)
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