| 大虐殺は何故起こされ、タイはどこへ行くのか かけはし2010.6.7号 |
既成秩序そのものを問う民衆的決起へ近づく沸点
ダニエル・サバイ |
本紙で何回か取り上げたタイの政治危機に対し、アピシット政権は軍事的弾圧を強行、大惨事を引き起こした。この政治危機とはどのようなものだったのかについて、タイ現地から届いた分析を以下に紹介する。次ページ掲載の第四インターナショナルの声明と合わせて検討していただきたい。(「かけはし」編集部)
タイ現代史上最悪の大虐殺
五月十九日水曜日、アピシット・ヴェイジャジヴァ政権は最終的に、ラチャプラソン周辺部で赤シャツ派占拠陣地に対する攻撃に着手した。世界中のテレビ局は、竹とタイヤでできたバリケードを破壊する戦車、そして銃で武装した兵士のデモ隊に対する実弾発射という、襲撃の乱暴極まる映像を放映している。そこで印象に残るものは、戦争のようなこの映像と、しかしほとんどが農民と都市の労働者からなるデモ隊の顔、この間にある不均衡だ。
メディアは自らが語るべきこととしてこれまで多くを、赤シャツ派の中の暴力的要素に定めきた。しかし、周辺部を「浄化する」ために軍隊が取った方策を人びとが目撃している時、これは心の底から見下げ果てたものとなる。反政府運動の始まり以来政権は、反政権派に対してあらゆる種類の暴力を向けてきた。そこには狙撃者の使用が含まれる。そして「最終攻撃」の期間中、兵士は殺害を正式に許可されていた。このような背景の中では、軍隊と富の象徴に対する暴力によって、運動参加者が彼らの憎悪と激怒を表したからといって、そこに驚くべきことなどない。
一九七三年、一九七六年、一九九二年の時のように、民主主義と社会的公正に対するタイ民衆の熱望に対して、支配的エリートは大虐殺で応えた。これが引き起こしたものは、一九三二年の絶対王制の終焉以降では最も重い結末だ。三月十二日の首都における反政府運動の始まり以降の当局が認めた死者は八十人、負傷者は二千人近くにのぼる。
世界の支配層黙認の計画的殺戮
四月半ば頃政権は、危機を解決するための五点にわたるロードマップを提案した。そこには、十一月十四日の選挙という考え方が含まれていた。赤シャツ派は、この計画を受け容れつつも、その保証を、並びに、四月十日の弾圧の中で起こされた市民殺害の咎で副首相のステプ・タウスバンは告発されるべきだと、求めた。しかし政権にとってこのロードマップは、そのまま無条件に受け容れるか拒否するかのどちらかしかない、という原理を基に提案されたものだった。このように先鋭化した政治的危機を解決するには何とも不可解なやり方だ。しかも提案された選挙期日、十一月十四日は、軍最高司令部の任期替えという戦略的な時期に、アピシットが権力の座にいることを可能とすると思われる日付なのだ。さらにまた、テロリズムという告発並びに反王制の嫌疑が、赤シャツ派の指導者たちに依然向けられたままだった。
この戦術は、アピシットを成功に導くものだったことが証明された。彼は、その後の取り組みに関するUDD(反独裁民主統一戦線)内部の分裂から得点を稼ぎ、またそれまで拒絶されていた反政府派に手を差し伸べた民主主義者、との外見を得た。彼は、こうして連立相手の支持を確保した後で、首都を侵略した「田舎の流民」を地方に送り返すために、強力な軍事的手段に訴えることができた。
しかしながら、五月十九日前夜には、軍事的弾圧とその後に続いた多数の死を避けることにはまだ可能性があった。およそ五十人の上院議員が、休戦に持ち込むために、UDDの指導者たちと討論中だった。しかしこの試みはアピシットによってはねつけられた。彼は最初から、交渉に取りかかるよりもむしろ弾圧を主唱する政権メンバーの仲間だった。アピシットが二〇〇六年四月に行われた不意打ち的選挙に参加することを拒否したことを思い起こそう。タクシンは彼の辞任を求めて何カ月も続いた野党のデモの後、その選挙で新しい任期を追求したのだった。
政権は、政権の決断に際して、国連が取った立場から力を得た。五月十三日から五月十六日にいたる数日間の衝突の後、国連人権高等弁務官、ナビ・ピレーは、報道向け談話で以下のように述べた。つまり「さらなる人命の損失を防ぐために私は、反政府派は瀬戸際戦術から後退し、警察・軍隊は政府から与えられた命令に従う中では最大限の抑制を働かせるよう訴える」と。これ以上明確にしようがないほどに彼は、力の使用に対して政権にゴーサインを与えようとしていた。高等弁務官はどこでも犠牲者の代弁者であるとの主張とピレーのこの言明には、はなはだしい隔たりがある。
国際的分野では沈黙が支配してきた。タイに注がれる視線は、中国やイランやベネズエラに対するそれではない。バンコクの街頭における農民や労働者の殺戮は、天安門広場におけるデモ参加者殺戮と同じほどの憤りを巻き起こしてなどいない。オバマは、政治的危機と市民の殺害に関してこれまで一言も発していない。しかしアメリカ政府は、「私有財産に損害を与えた」として赤シャツ派を非難した。タイのエリートは何が起ころうともアメリカ政府の支持を当てにできる。これはまさに真実だ。第二次世界大戦後アメリカは、アジアにおける共産主義の伸長を押さえ込むために、タイを彼らの主要な基地にした。ここには、権威主義体制と軍事独裁を築き上げそこに財政援助することが含まれていた。一九七〇年代の軍事基地の撤去は、この協調体制の終わりを意味してなどいなかった。毎年定例の合同軍事作戦や次の事実が示すように、両者の軍事協定は継続している。ところでその事実とは、ウドン・タニ軍事基地が、「テロとの戦争」との関連で外国人拘留者を非合法に尋問(拷問)するために、二〇〇三年アメリカによって使用されたことだ。タイは、中国の力によって脅かされている地域において自らの力を確かめつつあるアメリカにとっては、なお戦略的な国であり続けている。
王制の行く末にも及ぶ深い危機
ラチャプラソンの占拠陣地の破壊をもって、伝統的エリートはある種息継ぎの時を得たのかもしれない。しかし闘争は終局とはほど遠い。タイの危機の根は深い。今も成長中の、アジアの中でも最も高い部類に入る社会的不平等。いわば二足の司法システム。いよいよ度を強める権威主義体制。赤シャツ派と彼らの同調者の心を満たす憎悪と憤りは、もっと根本的には、彼らの仲間すべてのものでもある。そして彼らがこの国では多数派なのであり、その彼らが民主主義を熱望している。
タイは疑いなく独裁体制ではない。しかし「タイ式」民主主義とは権威主義的民主主義なのだ。民主的自由は既成秩序に従うという条件付きであり、この秩序は、検閲や非常事態法、さらにエリートを満足させない政権に対する司法あるいは軍隊によるクーデターに依存している。弾圧の暴力と取られた手段の不均衡性は、そこにたとえいかほどかの必要があったとしても、この運動によって支配層がどれほどまで動揺させられたか、を示している。実際この運動は、自身を共和主義者あるいは共産主義者と明言することが法によって禁止されている国で、政治的論議を解放することとなった。五月十九日の流血の弾圧は、政権の弱さの印である。
タイ社会はさしあたり袋小路の中にある。タイ式の権威主義的民主主義は行き詰まった。この危機の解決に役立たせるために純粋に民主的な選挙が行われる可能性がある、などとはもはやタイの人びとは信じていない。一方で「開明化されたエリートたち」は、社会と教育がなく文明化されていない市民にとって必要かつ良いことを分かっている者は彼らだけだ、と考えている。彼らは次の選挙での敗北を確信している。それ故、彼らのある者たちが決定した選択は、権力に留まることを目的とした鎮圧となった。他方に、純粋な民主主義と投票箱の尊重を熱望する社会の多数がいる。彼らの闘争は、彼らの利害を代表する実体ある党がまったくないという事実によって、不利にされている。彼らの声は、タクシンの権力に基礎を提供し彼自身の利益を増大させるために、数々の悪用という代価を払って、タクシンによって利用されてきた。
結論的に、統一の保証人であり頼みの綱となる力の保有者である国王の象徴機能、これに依拠した古いタイの政治秩序が脅かされている。ここ数週間の出来事は、かつての王制がもっていたほとんど神のようなイメージを極めて深刻に揺るがした可能性が、十分にある。公共空間に国王の肖像写真が至る所にあった国にあっては、ラチャプラソンの赤シャツ派占拠陣地におけるそれらの不在は、王制に対する彼らの幻滅の大きさをあらわにするものだ。プミポン国王からの仲裁に対する彼らの繰り返された訴えは、回答がないままに留められ、彼は現体制を支持しているという考えは、たとえそれがおおっぴらには論争できないとはいえ、ますます広がっている。この国の真の民主化に対する障害の一つはまさに、憲法に規定された王制に源をもつ役割の中にある。「主権は人民から発する」とする一九九〇年代後半に現れた理念に対抗するために、君主主義者は主権について、「主権は人民に属する」という理念を押し出している。もっともそれは、最後の段階では国王にあるのだが…。人びとに嫌われているプミポンの息子、バジラロンコルンによるプミポンの継承は、たとえ決起がそれ以前に起きないとしても、対立と既成秩序に対する挑戦の新たな時期に導く可能性がある。
エリートたちは、一戦闘には勝利したとはいえ戦争に勝ったわけではない。そして歴史は彼らの側にはない。あるいは、タイの諺が言うように、「虎から逃れても、次にはワニが待ち構えている」…。
刑事訴追をやめ即時の解放を
攻撃の中で赤シャツ派指導者のほとんどは、これ以上の流血の惨事を避けるため投降した。彼らは、テロリズムとの罪状が見出されれば死刑、あるいは最低でも、不敬罪を課されての三年から一五年の投獄、という危険に身をさらしている。何百人というデモ参加者も、軍によって逮捕され拘留されている。いくら控えめに言ったとしても、彼らの運命に確かなことは言えない。彼らの罪はただ一つ、既成秩序に反対したことそれだけなのだ。われわれは、拘留されているすべてのデモ参加者と指導者たちに、われわれの支持を届けなければならない。そして、彼らの即時の解放と訴追取りやめを実現させるために、緊急の連帯キャンペーンを組織しなければならない。
▼筆者は、アジア担当のバンコク在住「インターナショナルビューポイント」誌通信員の一人。
(「インターナショナルビューポイント」5月号)
投書
「クロッシング」を観て
SM
「クロッシング」(キム・テギュン監督作品/2008年/韓国映画/在日本大韓民国民団中央本部後援)を観た。
考えること
の多い映画
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の炭鉱で、元サッカー選手の男性(ヨンス)が働いている。男性は、妻(ヨンハ)と十一歳の一人息子(ジュニ)と共に、三人で暮らしている。男性の妻は、病気(結核)になってしまう。北朝鮮では、薬が手に入らない。そこで男性は、薬を手に入れようとして、中国に密入国する。そして、「不法労働者」になる。だが男性の妻は、病気が悪化して、死んでしまう。息子は、孤児になる。父を捜しに、国境の川を目指す。だが、脱北に失敗して、収容所に入れられてしまう……。この劇映画では、そういった話が描かれている。
「舞台となっているのは、一九九〇年代後半から数年間の咸鏡南道(ハムギョンナムド)である。経済破綻に金日成(キム・イルソン)主席死亡の衝撃が重なって北朝鮮社会はパニック状態に陥っていた。社会システムは麻痺、食糧配給制は崩壊して大量の餓死者を出す惨状を呈した。私は、この九〇年代飢饉で二百〜三百万人が亡くなったと推定している。もっとも犠牲者の多かったのが咸鏡南道であった」。「描写と状況設定のリアルさへのこだわりは、「北朝鮮問題の素人」の仕事ではないと思うほどであった。キム・テギュン監督は、相当な数の脱北者からの聞き取り調査をし、資料検討に労を惜しまなかったに違いない」。石丸次郎さん(ジャーナリスト/アジアプレス所属)は、この映画のチラシの中で、そう述べている。「近いのに遠いと思い、ごめんなさい。知っていながら知らんぷり、目をふさいで、ごめんなさい。一緒に泣いてあげるしかなくて、本当に本当にごめんなさい」。ペ・ドゥナさん(韓国人女優)は、この映画のチラシの中で、そうコメントしている。
この映画は、いろんなことを考えさせる。「資本主義には、問題がある。だが、社会主義よりはマシだ。日本は、北朝鮮よりはマシだ。社会主義は、嫌だ。社会主義政党に投票するのは、やめよう」。この映画を観た人の一部は、そう思うかも知れない。「この映画は、反共映画だ。反動的だ。この映画で描かれていることは、デタラメだ」。一部の左翼は、この映画に対して、そう反応するかも知れない。あるいは、この映画を無視しようとするかも知れない。だが、それらは間違っている。左翼が「左翼の犯罪」を擁護するのは、間違っている。右翼が「日本の犯罪」を擁護するのは、間違っている。それと同じことだ。
民主化と資本
主義化は違う
では、左翼はどうするべきか。「溺れている人を指差して、助けよう!と叫んでいる人に『あなたは右派ですか?左派ですか?』と質問することほど愚かなことがあるでしょうか」。ヨンスを演じたチャ・インピョさんは、この映画のパンフレットで、そうコメントしている。確かに、その通りかも知れない。北朝鮮は、ともかく民主化されるべきだ。だが、民主化と資本主義化は、実は同じではない。全然違う。資本主義派のすべてが「悪い人間」かどうかは、分からない。だが、資本主義派の中には、「詐欺師」も多い。ロシアや東欧の現在が、それを教えてくれる。資本主義国の中にも、独裁国家は、いくらでも存在する。資本主義国も、楽園ではない。私たちは、こういう問題にも気をつけなければならないのではないか。「私たちは、社会主義を目指す。だが私たちは、北朝鮮を社会主義だとは考えない。別の言い方をすれば、私たちは北朝鮮式の社会主義には、反対する。北朝鮮とは、一線を画する。私たちが目指す社会は、自由で平等で平和な社会だ。民主的で豊かな社会だ。「特別な人間」なんて、必要ない。資本主義にもスターリン主義にも、反対しよう」。民主的な左翼は、そう主張するべきなのではないか。この映画を観て、私はそれらのことを考えた。
なお、この映画には、私の誤解でなければ、「精神的に問題がある状態」を否定的に言う表現(「気が変になる」というような表現)があった。また、精神科の患者を否定的に表現している部分があった。それらが残念だ。私は、そう思った。
(2010年4月24日)
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