| 貧者の政治―インドネシアの社会主義 かけはし2010.7.12号 |
世界の中でももっとも血塗られた軍事体制の一つが終わって十二年、インドネシアの急進的左翼は今も厳しい闘争に取り組んでいる。以下は、インドネシアの活動家、パウルス・スリャンタ・ギンティンへのインタビューだ。
生活の危機と民主主義の絞殺
―経歴を紹介して下さい―
私は、コミテ・ポリティク・ラヤト・ミスキン―パルタイ・ラヤトデモクラティク(貧者の政治委員会―民主人民党、KPRM―PRD)と呼ばれている組織のスポークスパーソンだ。私はこの組織のための活動に加えて、ジャワ島中央部のセマラン、東部ジャワのシドアルドで労働者運動の活動に従事し、ジャワ島のジャカルタの学生運動でも活動した。二〇〇四年当時は、PRDの党員であり、役員会にも席を占めていた。その後二〇〇六年、「民主主義のための全国学生同盟」書記長になった。私はこの年まで学生運動の中で活動した。
―インドネシアで人びとが直面している日々の課題を伝えてもらえますか―
大きな問題は失業だ。失業率はおよそ三〇%になる。特に紡織産業の労働者は職を失い続けてきた。一九九八年の後、ジャワのバンドンにある多くの紡織工場が破産した。理由は、インドネシアルピーが急速に下落したために、たとえば中国などから輸入されていた原材料にこれらの工場が支払えなくなったためだ。一九九八年の後、中国からの織物に対する輸入関税が廃止されるか急速に低められた。そして多くのインドネシア生産者は競争できず、操業を止めた。アジア中国自由貿易協定は、多くの中国製品がまったくあるいは極めて低い輸入関税の下でインドネシアに輸入される可能性を開いた、ということを意味する―まさに織物のように―。これらの製品との競争に関して、インドネシア産業は多くの問題を抱えている。多くの人々にとっては、教育や医療介護もまた問題になる。これらの人々は、そこに費用を割く余裕などもてないのだ。
―一九九八年はスハルト体制が終わりを迎えた年ですが、これが先のような経済的転換点となった理由は何ですか―
スハルトは早くからIMFに巨額な負債をつくってきた。九〇年代末、アジアは、大部分が経済的投機によって引き起こされた経済危機で打撃を受けた。IMFは、いわゆる「構造調整計画」を実行するとの条件付きで、インドネシアに資金を貸し付けた。これらの計画に対する合意はスハルトによって署名されたものだが、その計画自体は、彼の後継者、バカルディン・ユスフ・ハビビによって実行された。ハビビもさらに新たなIMFとの協定に乗り出し、以下それは、グス・ドゥル、メガワティ・スカルノプトリ、その後の大統領、シシロ・バンバン・ユドヨノと続いた。これらの計画が意味したものは、インドネシア経済の徹底的な自由化だった。世界銀行もまた、援助の条件に経済の自由化と規制解体を付けた。新秩序と呼ばれたスハルト時代、インドネシアは外国の投資家たちには極めて人気が高かった。しかしスハルトと彼の仲間たちは経済の大きな部分を支配してきた。しかし今や、すべてが私有化されなければならず、医療介護、教育、公共運輸、食料に対する政府補助はめった切りにされた。これは、スハルト失脚後は多くの人が日常の必要に対してより多く支払うことが必要となったことを意味し、生活費は上昇し続けている。世紀の変わり目に私がジョクジャカルタで学んでいた当時、たいした食事でも一回当たり二千ルピーだった。しかし今それには、四千五百以上かかる。
―一九九八年の後公式には、インドネシアは民主主義国となっています。しかし現実には、民主的権利はないのですね―
まったくその通り。左翼運動は常に、直接にエリートのために活動している民兵とぶつかっている。多くのインドネシア人エリート
は新秩序時代に権力に駆け上がったが、依然として多くの影響力を保持している。国のいくつかのところでは、彼らはより多くの権力を再度手に入れつつあるが、あなたはそれを見ることすらできる。加えて、マルクス主義運動を禁止する法が今もある。民主的空間は縮小しつつある。もう一つの脅威は宗教的保守勢力だ。アチェには、ヘッドスカーフ着用を女性に強要する市民警察があり、バンテンには、宗教法、シャリフに非常に近い法があり、女性の自由を厳格に縛っている。たとえば女性は、男を伴わないでは、夜外に出ることを許されない。ジャカルタでは、性的少数派の人権に関するある集会が、イスラム原理主義民兵(FPI)の襲撃を受けた。この種の民兵は、九〇年代に民主主義運動を攻撃するためにしばしば軍の手で生み出された。これは、石や手近な棒などで自身を守ろうとした抗議運動参加者たちとの間の激しい衝突に導く。結局民兵は敗北し、軍事体制は身を引かなければならなかった。
既成エリートへの合流を拒否
―PRDは、九〇年代遅くのスハルト体制に対する大衆的抗議の中で、インドネシアにおける最も重要な急進的左翼組織として浮上しました。あなたがもはやそこで活動していない理由は何ですか―
われわれには、PRDの活動方法に対して二つの異論があった。第一のものは内部民主主義の欠如だ。第二にわれわれは、PRD多数派の選挙戦略に同意しなかった。これを説明するためには、インドネシアの選挙制度についていくつか語る必要がある。ある党が選挙参加の許可を受けるためには、党が州と都市の五〇%に存在していなければならず、都市の場合は、行政区の二五%に存在していることが必要だ。この条件は、小さな党の選挙参加をほとんど不可能にしている。
自分たちの力だけで参加を実現しようとした試みが何度か失敗した後PRDは、選挙戦線、パペルナスを組織する決定を行った。この戦線は社会主義綱領全体を支持することはしなかったが、対外債務の支払い拒否、石油やエネルギーや鉱業の国有化、産業の民族的計画など、いくつかの最小限綱領を押し出した。
われわれはこの方向で大きな組織を生み出そうと挑戦した。いくつかの成功があったものの、多くの問題にぶつかった。いくつかのパペルナス集会は、イスラム原理主義の攻撃を受けた。現在KPRM―PRDとなっているグループは、そこで決定されたいくつかの選択に疑問を呈した。われわれは、街頭行動の組織化、人びとを急進化する可能性をもつような種類の行動に、選挙組織の建設よりも優先順位が低く与えられている、と感じた。結局パペルナスは選挙に参加できなかった。PRD多数派はその後、反動的な宗教エリートの政党、パルタイ・ビンタン・レフォルマシ(スター改革党)との連携を決定した。
この決定は彼らの選挙参加を可能としたが、支払った犠牲は極めて高い。たとえば、彼ら自身の要求を放棄し、伝統的な政治家や人権の侵犯に責任のある将軍たちとの連携に入ったのだ。選挙が近づく中でわれわれは、これらのマヌーバーに反対したことを理由に除名された。
インドネシアでは、民主主義運動出身の何百人という活動家が強力な政党の候補者となった。他の人びとはNGOに合流し、自身の活動を現状の枠組みにとどまる目標に限定している。
反スハルト決起の遺産の進化へ
―現在あなた方の活動の主な焦点は何ですか―
われわれの活動家のほとんどは「労働者の要求連合」と呼ばれている連合の形で、労働者組織内の活動を行っている。この組織は、紡織、運輸、電力などのさまざまな産業で働く労働者の連合だ。連合は、まともな賃金を要求しアウトソーシングに反対するキャンペーンを行い、ストライキを組織し、政治キャンペーンに参加している。連合はまた自身の出版物をもち、討論集会を組織している。KPRM―PRDは、キャンペーンの中で掲げるべき要求を労働者と討論するための集会を組織している。第一の優先は運動の建設だ。
われわれはまた、学生運動に参加し、「女性解放」という名の女性組織を作った。労働者、学生、農民など、住民のさまざまな階層の女性たちがこのグループの中で活動している。この国では、数という基準で見れば、労働者運動が図抜けて最大の運動だ。しかし労働者は素早く立ち上がることはできない。何と言っても仕事がある。それと比較すれば、学生は素早く立ち上がることができるが故に学生運動は重要であり、しかもこの運動は、特に、民主主義、権力乱用、腐敗などの課題に関する政治的動員の伝統をもっている。ジャカルタにおけるメーデーでは、「労働者の要求連合」は七千人近い人びとを動員した。そしてほかのグループも何千人もの民衆を街頭に引き出した。ジャカルタでの総計は二万四千人近くとなった。
一九九八年以降、政治的動員はインドネシア文化の一部となっている。これはスハルトを追い払った運動の重要な遺産だ。ほとんど日常的に、新たな行進やデモがあちこちに、しばしば自然発生的に現れている。決起することへのこの自発性はあらゆるところに、都市ばかりではなく地方にもある。たとえば農民は、彼らの土地から追い立てられることに、ときには極めて急進的な決起として、抵抗している。そのような決起に際して人びとは、軍に抵抗するために初歩的な武器を使用している。
左翼はインドネシアの伝統的エリートに対するオルタナティブを作り出すことが可能であり、われわれが協力すれば、このために十分に強力になることができる、われわれはこう考えている。伝統的政治家への人びとの信頼は下落しつつあり、支配階級は分裂している。近年の経済危機はインドネシアを同様に厳しく打ちのめしている。このすべてが意味していることは、人びとがオルタナティブを求めている、ということだ。社会主義理念とラテンアメリカの進歩的政権に対しては多くの関心がある。われわれがさまざまな運動を何とか合流させることができれば、新たな勝利を得ることができる、私はそう考えている。
▼インタビューアーは第四インターナショナルオランダ支部、社会主義オルタナティブ政治(SAP)の指導者。(インターナショナルビューポイント7月号)
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