| 金日成朝鮮の金正恩世子冊封 かけはし2010.10.25号 |
北韓(北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国)の後継体制を理解しようとするならば、以下の3つの場面を見逃してはならない。
1、9月30日、初めて公開されたキム・ジョンイル(金正日)国防委員長の3男キム・ジョンウン(金正恩)の姿。キム・イルソン(金日成)主席の青年期の写真を覚えている人ならば反応はほとんど似通っていた。「そっくりだ!」
2、9月30日、板門店南側地域の「平和の家」を訪れた北韓記者たちの話。彼らはキム・ジョンウンを指して「指導者として必要なすべてのものを備えた方」だと称賛した。
3、9月28日に改定された朝鮮労働党の党規。北韓は改定の党規で元来「キム・イルソン同志によって創建されたチュチェ(主体)形の革命的マルクス・レーニン主義の党」という「党の性格」を、「偉大な首領キム・イルソン同志の党、キム・イルソン朝鮮」へと変えた。
エリート社会で先行偶像化
最初の場面は、北韓の後継の承継がいかに科学的でないやり方で進められているかを象徴的にさし示している。北韓〈朝鮮中央TV〉を通じて公開されたキム・ジョンウンの姿は若い時期のキム・イルソン主席の姿そのままだった。壮健な体格と強靱な外貌が似通ってもいたけれども、両サイドを短く刈り上げた頭の様子や写真の中の他の参席者たちとは違って、たった1人、人民服を着た事実などから推してみるとき、「キム・イルソンのイメージ」を借用したという分析が可能だ。人民服はキム主席やキム・ジョンイル国防委員長が好んで着用していた中国式の簡便服だ。この姿は北韓が対外的に公開した初めてのキム・ジョンウンだった。キム・ジョンウンがキム・イルソンの後継者だという事実を自然に印象づけようとする、一種の「イメージ政治」だとの解釈が出てきている。
2009年10月、日本の〈毎日新聞〉がインターネット・ホームページに全文を公開した「キム・ジョンウン大将同志の偉大性についての教養資料」もキム・ジョンウンを指して「威勢よく響きわたる声など、わが首領(キム・イルソン主席)やわが将軍様(キム・ジョンイル国防委員長)にそっくりの」外貌だと紹介しつつ、「唯一無二の後継者」として押し出した。
外部世界との接触が可能な北韓の記者が、すでに常識をとび越えた「キム・ジョンウン称賛」に熱を上げているという事実も注目する必要がある。北韓記者はこの日「平和の家」でキム・ジョンウンについて訊ねる南側の記者に「〈キム・ジョンウンは〉コンピューターだけではなく政治、経済、社会、文化のすべてに精通された方」だと語った。せいぜい今年28歳にすぎないキム・ジョンウンを指して「指導者として必要なすべてのものを備えた方」「あらゆることに精通された方」との評価が出てくるのは、北韓のエリート社会を中心に「キム・ジョンウン偶像化」がすでに相当部分、進められたという事実を意味する。
圧巻は改定された党規約に「キム・イルソン朝鮮」という表現が登場するという事実だ。北韓は2009年4月、社会主義憲法の改定を通じて「キム・イルソン民族」という言葉を初めて使った。今回、憲法の上位規範である党規約に「キム・イルソン朝鮮」を入れたのは、そこからさらに1歩踏み込んだものと解釈できる。キム・イルソン神話化の極端さを見せつける場面だ。
その上、党の規定や思想ならびに路線に初めて「キム・ジョンイル同志」や彼の路線を意味する「先軍政治」が含められた。改定された党規約は、「キム・ジョンイル同志を中心として、組織思想的に強固に結合した労働者階級や勤労人民大衆の核心部隊であり前衛部隊」だ、と党を説明している。党の路線においても、先軍政治を既存のマルクス・レーニン主義およびチュチェ思想と同じ班列に上らせた。意味深長な部分だ。
匿名を条件とした国策研究機関の関係者は、「党規約にキム・ジョンイル国防委員長の名前や彼の先軍政治の路線が入ったという事実は、先軍政治をチュチェ思想と共に唯一思想の系譜に入れるとの意図」であり、「今回の党規約の改定を通じてキム委員長がキム・イルソンの後を継ぐ歴史的人物として1段階昇格したわけ」だと語った。
永生不滅の首領の始まり
結果的に北韓は昨年の憲法改定と今回の党規約改定を通じて国家と民族のアイデンティティーを「キム・イルソン」というキー・ワードによって解いた。またキム・ジョンイル委員長まで便乗して歴史的人物へと昇格させることによって、ごく自然に「キム・イルソン―キム・ジョンイル―キム・ジョンウン」へと連なる3代世襲の正当化を図っている。
9月28日の労働党第3回代表者会は北韓が書いている巨大な神話のもう1つの続編を知らせる行事だった。もちろん神話の主人公はキム・イルソン主席とキム・ジョイル委員長からキム・ジョンウンに変わった。神話学者であるチョン・ジェソ梨花女大教授は「正当性が充分ではない政権であればあるほど体制維持のために神話化を必要とする」のであり、「外部の見方で見た時はキム・イルソン―キム・ジョンイル神話を理解できないかも知れないが、朝鮮王朝や日帝時代を経ながら市民社会の経験がなくそのままキム・イルソン唯一支配体制に移ってきた北韓では神話的修辞学やシンボルの造作は充分に受け入れられ得る」と語った。彼はまた「キム・イルソンを既に歴史的人物から神話的位置にまで上がった人物と見るならば、今はその神話をキム・ジョンウンにまとわせる段階にさしかかったものと見られる」と付け加えた。
北韓の体制神話の誕生は、キム・イルソン主席の「抗日遊撃闘争」の時期にまでさかのぼる。北韓の歴史書は1931年9月、満州事変の勃発を契機に展開された共産主義者の抗日遊撃闘争をキム主席が唯一、指導したものとして紹介している。また〈朝鮮労働党の歴史〉は1934年3月に中国共産党満州省委員会の指示で東満(今日の延辺)で建立された東北人民革命軍第2軍独立司が、あたかもキム・イルソンの「取り計らい」によって創設されたかのように述べられている。
けれども実際のところこの時、キム・イルソン主席は部隊の中間幹部にすぎなかった。朝鮮人と中国人の混成によって偏在した東北革命軍の名前も、北韓は「朝鮮人民革命軍」と呼んでいる。キム主席の権限強化のために、彼の抗日闘争をふくらませ歪曲したのだ。イ・ジョンソク前・統一部長官は、キム・イルソンの神話化が彼のカリスマを支えていると分析した。
「キム・イルソンは、北韓が主張しているように満州の抗日武装闘争全体を指揮した唯一の指導者ではなかった。だが北韓の理論家たちは今日まで抗日武装闘争の歴史を彼の唯一の指導下になされた歴史だと分析し、彼の闘争活動を事実の範囲を越えて誇張や歪曲をほどこして神話化した。他の国では抗日武装闘争に対する彼の神話的イメージも崩壊したけれども、北韓では現在も依然として神話化された彼の抗日武装闘争が「この社会を動かしている力として作用している」(〈新たに書いた現代北韓の理解〉、イ・ジョンソク、2000年3月)。
神話を基盤としたキム・イルソン主席のカリスマは北韓特有の教養学習体系を通じて個人崇拝へとつながった。キム主席を指す特有の呼称である「オボイ(父)首領」も登場した。イ・ジョンソク前長官は〈新たに書いた北韓の理解〉で「北韓の人々は人間の生命を肉体的生命と社会政治的生命とに2分化させ、この中で社会政治的生命を「永生不滅」のものとし、肉体的生命に比べて「比べようもなく」貴重だと考え、まさに「この社会政治的生命を首領が与えると考える」と説明した。首領という呼称の前に「オボイ」が付き、国家は拡大した家族のイメージによって強調され得る理由がここにある。キム・イルソン主席に対する個人崇拝は1950年代後半の「反宗派闘争」の過程での反対派の没落とともに一層、甚だしくなった。
北韓社会をカリスマ的リーダーシップによって統治してきたキム・イルソン主席は1967年後半から自身に対する個人崇拝のレベルを超え、家系の絶対化を試みた。後継問題についての悩みのせいだった。キム・イルソン体制が絶えず強調した「革命の家門」の伝統は結局、世襲へとつながった。
1974年2月、キム・ジョンイル委員長は32歳で労働党中央委員会政治委員に選出され、後継者として登場した。後継者に上るまでの過程や、それ以降の権力をしっかりとうち固める過程は民主的・手続き的正統性を持てないものだった。先にチョン・ジェソ教授が語ったように、「体制維持のための神話化」が登場するほかはなかった。いわゆる「白頭山密営神話」だ。
「ジョンウン大将」の神話作り
抗日の求心点として白頭山が持っている象徴性をキム・ジョンイル委員長の誕生と関連づけるために、彼の出生地を白頭山・密営に仕立てあげたのだ。キム委員長の実際の出生地はソ連領内だった。和田春樹・東大名誉教授は著書〈北朝鮮〉で、こう回顧した。「筆者はキム・イルソンが生前に脱神話化、つまり『人間宣言』をすることによって継承者である息子を自由にしてやらなければならないと考えてきた。そうでない場合、息子はためらいの中で悲劇的な結果を生み出しかねない」。
彼は1992年2月16日付〈労働新聞〉の1面を見た後、自身の期待が水泡に帰した、と紹介した。キム・ジョンイル委員長の50歳の誕生日を迎えキム・イルソンが送った祝詩が載っていた。「白頭山の頂にチョンイルボン(正日峰)がそびえ立ち/けがれなき青き水は、とうとうと流れ行く/光明の星が生まれ、はや50年/文武忠孝みな備わりて誰もが仰ぎ見ん/万民が称えるその思いは1つ/力強い歓呼の声、天地を揺るがす」。作りあげられた「白頭山密営神話」は、北韓社会において、やがて体制の神話としてすえられることとなった。
北韓は白頭山密営神話を宣伝し、革命家門の正統性を強調すると同時に、キム・ジョンイル委員長が政治に介入し始めた1960年代後半から彼が北韓社会で積んだ業績を押し出しつつ民心を獲得しようとした。
このようなやり方の権力移譲はキム・イルソン家門の3代世襲の過程においても同じように現れる。例えば2009年の中盤からピョンヤンの有線ラジオ放送を通じて集中的に紹介されているキム・ジョンウン関連の「革命の逸話」が代表的だ。このうち人民軍「テドク山哨所」の逸話は対北消息通などを通じて広く知られた事件だ。休戦ライン西北地域にあるテドク山哨所はキム・イルソン父子が数度にわたって訪れた所であり、北韓では「一党百(一騎当千)」のスローガンの由来となった所として知られている。対北消息通によれば、北韓の放送はこの地域を紹介しつつ「ここの軍人たちが水がなくて苦労している時、ある若者が現れて鉄パイプを打ち込み地下水を汲み出すことに成功した。後で分かったのだが、その若者はキム・ジョンウン大将だった」という式の宣伝をしていたことが伝えられた。
キム・ジョンウンを「偉大な指導者」として作り出すための北韓の努力は2009年1月に彼を後継者として事実上、内定して以降、たゆみなく進められてきた。例えば、44年ぶりにW杯の本選の舞台に進出したサッカー代表チームの成果をキム・ジョンウンの業績に結びつけようとしたという逸話や、ピョンヤン市の住宅10万世帯分の建設をキム・ジョンウンが指揮すると宣伝したことなどが挙げられる。
けれどもW杯で北韓がポルトガル戦で0対7で大敗し、また景気の沈滞によってピョンヤン市の住宅建設もままならず、さしたる効果を得られなかった。北韓政権が住民にキム・ジョンウンの業績として押し出すに値するものは結局、幾つかの工場でコンピューター制御(CNC)化に成功したということ程度にすぎない。
09年10月、日本の〈毎日新聞〉が公開したキム・ジョンウンの「偉大性についての教養資料」も、よくよく注意して見るべき資料だ。「教養資料」はキム・ジョンウンを指して「誰もが付き従うことができないほどの天才的英知と智略を備えた軍事の英才」だとか「現代軍事科学と技術に精通した天才」という具合に紹介している。
同時に、この資料には一時、世襲に否定的だったものと伝えられていたキム・ジョンイル委員長が3代世襲を強行した理由についても説明されている。「第2インターナショナルに貢献したベルンシュタイン、カウツキーのような機会主義者たちがマルクス主義に背き修正主義の道に転落し、スターリンの死後に権座に上ったフルシチョフによる修正主義が台頭し、それ以降、背信者たるゴルバチョフによって社会主義の崩壊という惨状が起こった」。結局「背反と背信」、そして「体制崩壊」に対するキム委員長の恐さが「限りない忠実性」を持っているキム・ジョンウンを選択した背景だ、という意味だ。
林彪クーデターが反面教師?
これは自身がキム・イルソン主席の後継者に選択された歴史をそのまま反覆したものだった。キム主席がキム委員長を後継者に公認する前の1971年9月、中国では毛沢東の後継者・林彪が反乱をひきおこす事件が繰り広げられた。権力承継当時、中国共産党の序列2位で毛沢東崇拝運動を主導した林彪がクーデターを図った事実は、キム首席が血筋であるキム委員長を後継者として確定する際に少なからぬ影響を及ぼしたものと伝えられた。結局、キム委員長が権力を引き継ぐ時も、再びその権力がキム・ジョンウンに継承される過程でも、北韓政権は封建的規範である「忠実性」を第1の徳目として要求せざるをえなかったのだ。
乏しい民主的正統性や、これに伴う体制の不安を神話や忠誠など、およそ21世紀には似つかわしくない単語で埋めなければならないのが「地球上に残った最後の奇怪な王朝」北韓の現実だ。「王朝」という表現は過激だとの指摘はあるものの、3代世襲を遂に強行する北韓体制の特性を探る時、今日の北韓と「王朝」の間にセッカン(大河が分かれて途中で中州を作り、再び合流するまでの間の支流を指す)が流れているとするならば、「朝鮮民主主義人民共和国」と北韓の間はハンガン(途方もない大河)によって隔てられている。(「ハンギョレ21」第830号、10年10月11日付、チェ・ソンジン記者)
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