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国家人権委員会10周年のバランスシート         かけはし2010.10.4号

専門家による人権委評価29・4点
注目の政治的独立性では18・3点


 国家人権委員会(以下、人権委)は来年で発足10年を迎える。けれども内外で「廃止すべき」との声までも激しく出されている。主要な時局関連の事案に対して人権委の職権調査・勧告などを決定する全員委員会会議は「ポンスンア(鳳仙花)学堂」という自嘲が広がっている。一部の人権委員の低レベルの人権意識や不得要領な発言などのせいだ。内部では辞職、解職、休職、遊学など組織員たちの「エクソダス(大脱出)」が相次いだ。韓国の先進化・民主化の「指標」だった人権委は今、どんな評価を受けているのか。内部ではそもそもどんなことが起きているのか。聞いてみればみるほど事態は凄惨だ。(「ハンギョレ」編集部)
 危機という表現は正しくない。2010年、国家人権委員会の信頼レベルは「敵意」によって貫通される。温情さえなくなった人は「軽蔑」と修飾する。人権問題の専門家らの評価だ。市民らは、いまだその内幕を知らない。<ハンギョレ21>が学界、法曹界、市民社会の人権専門家26人を対象に「人権委の9年」を評価するアンケート調査を実施した。設問の対象には人権委員の経験者はもちろん、現職にある人権委事務局の幹部も含まれている。特に2001年の人権委発足の際、「産婆」の役割を果たした設立企画団の構成員も含まれた。その年の4月、国家人権委法が通過した後、8人の民間専門家によって構成されていた設立企画団は、人権委の未来を設計した象徴的な集団だ。


「最悪」の評価は現委員長

 まず歴代の人権委員長の中で「最悪」としてヒョン・ビョンチョル現委員長が挙げられた。ケタはずれに圧倒的だ。26人の応答者のうち24人(92・3%)がヒョン委員長を挙げた。その他の1人は「分からない」と答え、さらにもう1人はチョ・ヨンファン元委員長を挙げた。
 2001年11月に発足した人権委は今日まで全部で5人の人権委員長を輩出した。キム・チャングク初代委員長(〜2004年12月)、チェ・ヨンド第2代委員長(04年12月〜05年3月)、チョ・ヨンファン第3代委員長(05年4月〜06年10月)、アン・ギョンファン第4代委員長(06年10月〜09年7月)に続き、イ・ミョンバク大統領が昨年7月に任命したヒョン・ビョンチョル委員長が、その地位を守っている。
 現委員長は人選の過程の時から各界の反発に直面した。大学行政に精通した補職(公務員に具体的な職務の担当を命ずること、またはその職)教授出身という点以外には知られたことがなかったからだ。1年余りの間、職務を遂行した後の評価はどうだろうか。
 設問調査の結果が、その一端を示している。歴代委員長の中でヒョン委員長を最も低く評価している理由(複数回答)として、最も多い22人が「組織の政治的独立性不足」を挙げた。ヒョン委員長としてはやりきれないかも知れない。当初、人権機構の政治的独立性を擁護しなかったものと考えられるからだ。ヒョン委員長は昨年9月の国家・国政監査で「人権委は独立機構なのか、行政府に属しているのか」と質問するハンナラ党の議員に対して「後者」だと答えた。
 独立性の当然さは、人権専門家たちの間で言うまでもなく幅広く合意された要素だ。設問調査でも「人権委は政治的に独立しなければならないか」という質問に25人が「大いに同意する」、1人は「同意するほう」だと明らかにした。これは現人権委の独立性を問う質問に25人が「これまでの政府よりも極めて独立性が劣る」、1人が「独立的でないほう」と評価したことと軌を一にしている。国家人権委法は「委員会は、その権限に属する業務を独立して遂行する」(第3条2項)と明示した背景とも通じるだろう。
 ヒョン委員長のこのような態度は、設問応答者20人(複数回答)が、ヒョン人権委員長に対する評価が低い理由として「人権改善の意志ならびに知識の不足」をとがめる背景にもたどりつくようだ。9人は「市民社会団体との協同作業不足」を挙げ、9人は「象徴性ならびに国民信頼度の不足」を指摘した。「組織運営ならびにリーダーシップ問題」を挙げた人も5人だった。
 現体制の人権委が本来の役割を果たせていないとの絶叫が伴っている。応答者19人(73%)は「極めてダメだ」と答え、6人は「全般的にダメなほう」だと指摘した。「普通だ」、「(極めて)よくやっている」と評価した人は1人もいなかった。回答しなかった1人に改めて理由を聞いた。「評価する価値がなかった」という答えが返ってきた。百点満点の点数で評価してくれ、との質問には5人が40点、4人が50点を与えたものの、平均は29・4点にとどまった。20点、30点を与えた人がそれぞれ4人だったためだ。また3人とっては「零点」しか付けられない人権委だった。もはや存在の意味はない、という話だ。
 政治的独立性に与えられた点数は、さらに渋かった。平均18・3点だ。10点、20点、30点を与えた人がそれぞれ6人だった。零点を付けた人は5人にもなった。

「おぞましい」実態と変質

 このように画一的ながらも嘲弄にも似た評価を受けている背景は何なのだろうか。検察の捜査まで受けた民間人査察の件が人権委の内部で処理される過程を探ってみる。
 キム・ジョンイク氏に対する総理室の査察の件をめぐって7月初め、常任委員たち(人権委員中の3人)が事務局に基礎調査およびモニタリングをして常任委の案件として報告するように要請する。ヒョン委員長は「常任委員たちはいかなる案件を事務局に上げろという権限があるのか」となじった。論争が繰り返された。現在、調査官による調査が進行中だ。人権委が該当事案に介入する時期はなくなった。人権委のある幹部は「事実上、常任委の無力化」だと切って捨てた。常任委員3人はいずれも委員長と対立することが多かった。
 反面、全員委はヒョン委員長と意思を同じくする人が多数だ。人権委員は人権委員長を含め全部で11人によって構成される。大統領が4人を任命し、大法院長(最高裁長官)が3人を指名し、国会が4人を選出する。これらの人々が出席した全員委の会議を通じて6人が賛成する時、決定(意見の提出、転権調査、勧告など)などがなされる。
 今年8月、国会議員3人に対する国情院(国家情報院、かつての安企部をルールとする)による査察の件が全員委に上程される。全員委の会議である人権委員が言った言葉は「事実関係がよく知らされておらず、どんな内容なのかよく分からない」だった。他の人権委員たちがなじった。「1カ月余りにもわたって民間人査察問題として国中が騒がしかったのにニュースも見ないのか」「<ハンギョレ>や<京郷新聞>だけでなく<朝鮮日報><東亜日報><中央日報>や韓国放送(KBS)でもみな報道した」。全員委を1年余りモニタリングしてきたある人権団体の活動家は「(委員たちが)話しているのを見聞きしていると、鳳仙花学堂よりも笑わせる」ときつい冗談を投げかける。ある委員は「(準備のできていない人権委員らの)会議の過程を見ているとおぞましい」とまで語った。事案は結局、否決された。
 一部人権委員の資質論難が増幅した背景だ。これらの人々の「資質論」こそは事実上、終始一貫したものだった。その結果が文化放送の<PD手帳>番組事件での裁判所に対する意見提出の件の否決(09年12月)、集示法(集会示威に関する法律)上の夜間デモ規定についての憲法裁判所への意見提出の件の否決(10年2月)、パク・ウォンスン事件での裁判所に対する意見提出の件否決(10年4月)、公職選挙法93条1項に基づいた、4大河川事業や無償給食の選挙公約活用禁止についての憲裁への意見提出の件否決(10年8月)だ。
 キム・チャングク初代委員長は「人権委法で語っている人権は憲法の規定を超え、我々が加入・批准した国際人権条約・慣習法で認めている人権までを指しているのであり、それの判断の準則とみなしているもの」であり「したがって人権委は片方の足は現実の世界を、もう一方の足は理想の世界を踏みしめている」のだと語る。けれども現人権委、特に(一部)人権委員の態度は、このような期待や国際的指針を大きく逸脱する。特に今年2月、保守側人権委員が6人になって多数(委員長を含む)を占めるとともにその傾向は色濃くなった。変化と言おうが変質と言おうが、実に明確かつ露骨だった。

企画団最後のメンバーが辞職

 実際に設問調査の結果、夜間デモ規定の件については26人全員が「意見提出が妥当だ」と語った。文化放送<PD手帳>の件は25人が「意見提出」に手を挙げた。1人だけ「上程する事案ではない」として反対した。民間人査察の件も1人の棄権を除いた全員が人権委の「職権調査」が妥当だとの意見を述べた。パク・ウォンスン事件の場合、24人が「意見提出」のほうに立った。1人は「意見提出反対」、1人は「上程する事案ではない」との意見だった。
 人権運動サランバンのミョンスク活動家は「人権委員たちは行政公務員や警察が根拠として出しそうな下位法を基準として主要な人権の事案を棄却する場合が多い」と語る。人権委内部でも「判決を下すかのように法理ばかりを測ろうとする」との指摘が多い。ある人権委員は「人権委が民願(請願)機構化している」と指摘した。
 人権委内部の自嘲が聞こえる。その雰囲気を一枚の辞職書が伝えている。「職務をこれ以上、遂行することができず辞職します」。8月、キム・ヒョンワン人権政策課長が人権委に最後に投じた言葉だ。2001年8月に稼動した人権委設立企画団8人のうちの1人だ。掛け値なしに丸ごと9年ぶりの別れだ。こうして「太初」のメンバーはすべて消えていくという、人権委の1つの時代の終焉でもある。
 01年8月29日だった。設立企画団の団長を担っていたチョ・ヨンファン弁護士が電話をした。ドイツでの留学を終えて帰ってきた日だ。「国家人権委が発足することになったので準備の研究会に参加してくれ」という提案だった。ためらいはなかった。「重要なことだと考えた」。数日間、家族と再会した後、ソウル・駅三洞の4坪余りの事務室に出退勤した。3カ月ほど無報酬で働いた。
 「国連が提示した国家人権機構の最も基本的疎明は国家権力からの人権侵害を予防し、国民の人権を保護・増進することであり、政治権力から委員会がいかに独自性を確立するのかが企画団の核心的課題でした。全くの白紙からの始まりでした。西欧では主に人種、宗教、性などの差別問題に重きを置く状況であり、我々は50年、軍事・権威主義の政府による人権侵害が強固だったのですから。調査・監視の対象である政府部署・施設と人権委の関係をどう設定するのか、国家人権委法施行会にどんな内容を盛りこむのか、政策と調査・教育など主要業務はどのように分掌するのか絶えず討論し、整理する過程でした」。
 朝7時から日付を超えて深夜1〜2時まで仕事をした。「その時ぐらい没頭して熱情的に仕事をした記憶はありません」。そして国家人権委員法が発効したその年の11月25日、事務処準備団(団長キム・チャングク初代人権委員長)に吸収され実務的土台をうち固めた。
 以前の8年よりも、最近の1年がより長かった。大変だった。特に人権政策課を無力化する過程が激しく進められた。人権政策課は人権委の象徴的部署だ。龍山の武力鎮圧、文化放送<PD手帳>の起訴から最近の民間人査察まで主要な時局事案をめぐって調査、意見の整理などを担当し、案件を報告した。詩句を借りれば、「人権委がどこに行くのかを見ようとすれば、政策課を見よ」とでもなろうが、政権にとっては目の上のたんこぶだ。
 今年4月、ヒョン・ビョンチョル委員長はチーム制の改編を名分として人権政策課が担当していた移住(労働者)の人権、女性の人権分野をそれぞれ侵害調査課、差別調査課に移した。そして課長の下、北韓人権チーム長と法制改善チーム長を新たに配置した。5月にはイ・ソンフン人権政策本部長が辞退を要請されて出て行く。キム課長は「ヒョン・ビョンチョル委員長―新政策本部長―政策課チーム長の側近というラインが形成」されたのだと説明する。孤立というよりは役割を去勢した形だ。

祝福ではなく呪詛の10周年

 昨年4月、ナム・ギュソン市民教育チーム長が行政安企部(省)の職制令(21%の人力縮小案)にそって追い出された。別定職(国家公務員の1つ)公務員として、当該チームがなくなったためだ。イ・ミョンジェ広報協力課長も職権免職されたる民間出身の職員らに対する、いわゆる「粛清」が続けられてきたわけだ。
 キム課長は「血税を得ていながら、国民から付与された疎明をすることができないのであれば、当然にも引き下がるのが正常」であり、「個人的恥辱より、周りが私に付与した疎明や象徴性があるのに、その価値集団がこれ以上、侮辱されてはならない、と判断した」と語った。
 そうでありながらも決定は簡単ではありえない。同僚たちから、無責任だとの批判があった。一緒に出ていく、という人もいた。すべて拒絶した。決定は断じてたやすいわけがない。あと6カ月さえ働けば公務員年金の対象者となる。
 辞職書の提出が報告された翌日、キム・ヒョンワン課長はヒョン・ビョンチョル委員長とたった2人きりでエレベーター内で出くわすこととなった。「お茶でも飲もう、たとい口先だけでもそれぐらいは言いそうなもんだが、ひとことも発せず、そっぽを向いていた」。キム課長は舌打ちをした。9月3日、ヒョン委員長は彼の辞表を受理した。
 8月26日夕刻、済州で開かれた済州人権会議では「国家人権委員会の10年を振り返る」というテーマでの特別セッションが開かれた。アン・ギョンファン前・委員長を含む元・現職人権委員、多くの人権活動家らが参加した。10年を振り返るセッションへの参加は多くはなかったが、現体制に対する糾弾が相次いだ。アン前委員長は「もう少し楽観しながら待ってみよう」と力無く笑った。だが糾弾する側からは「こんなでは人権委は廃止されるべきではないのか」との主張もあった。実際、キム・ヒョンワン課長は市民社会陣営の「対案的人権委」を模索し、人権委の10年史をありのままに整理する作業をしようと考えている。
 設立企画団の一員だったチョン・ヨンソン全北大法学専門大学院教授は「苦労して発足した人権委が余りにも慌しく、記憶の中に消えようとするこの頃、それでも人権委を守りぬかなければならない」と語った。行き交う言葉を縮めれば、「人権委を廃止せよ、だが人権委を守れ」だ。矛盾の時代、結局、市民の人権だけが侵害される。10周年は祝福ではなく呪詛になろうとしている。(「ハンギョレ21」第827号、10年9月13日付、イム・インテク記者)


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