| 新法施行下で加速する臓器移植 かけはし2010.9.6号 |
「脳死」状態からの臓器移植が、ハイペースで進んでいる。昨年七月、他案に大差をつけて成立した「改正臓器移植法」は、去る七月十七日に全面施行された。同法は、本人の提供意思が不明の場合でも、家族が承諾さえすれば臓器を取り出せるという内容で、臓器摘出へのハードルを一気に押し下げた。われわれが一貫して主張しているように、移植医療が抱える根本的な矛盾と、それがもたらす当事者への人権侵害が、同法施行後の手術事例とともに、いよいよ明らかになりつつある。
「本人意思不明」
で次々と摘出
八月十日。大手商業紙は一面トップで法改正後第一号の脳死判定を伝えた。ドナーは交通事故で千葉県の病院に入院していた二〇代の男性患者。外傷の治療を続けていた病院側が五日に「日本臓器移植ネットワーク」(移植ネット)に連絡。同ネットが家族ら数人に、脳死移植と臓器提供を説明。八日に家族は提供を承諾したという。
この一例目で、ドナーの意思は生前に家族に伝えられていた、と報道されている。男性が移植関連のテレビ番組を見ていた際に、会話の中で「万が一のときは臓器提供をしてもいい」という意向を話したという。しかし、その時期や、意思の強弱はいっさい明らかにされてはいない。難病や障がいを抱える人々の姿を追うドキュメンタリー番組は数多く放映され、そのほとんどは見る者の涙を誘う仕上がりになっている。視聴者が感動して臓器提供への関心を口外したとしても、不思議ではない。
だが二例目以降は、本人の意思がまったく不明のケースである。八月十九日。移植ネットは近畿地方の病院に入院中の男性について、本人の意思は不明だが、家族による承諾のみで脳死判定が行われたと発表した。この事例から、提供への本人意思が不明の脳死判定、そして臓器摘出が次々と強行されるのである。二十二日には東海地方の病院に入院していた五〇代の女性が、三例目として「脳死」と判定された。
四例目は八月二十七日。松山赤十字病院(愛媛県)にくも膜下出血で入院していた四〇代女性が、脳死と判定された。この女性は、「臓器提供意思表示カード」を持っていたという。
翌二十八日には、関東甲信越地方の病院に入院していた四〇代の男性が、五例目になった。同日、脳死と判定された。男性は提供意思を示すカードなどの書面をもっておらず、この場合も家族が承諾した。八月二十九日現在、五例のうち三例が「本人意思不明」であった。
不合理・矛盾だ
らけの移植医療
われわれが本紙において過去何度も主張しているように、「脳死」の公認とその状態からの臓器移植は、きわめて不条理で矛盾に満ちた行為である。
まず、医学医療の領域のひとつの治療手段にすぎない臓器移植のために、国民の死の定義が決められることの横暴さである。それは、これまで治療の名の下に覆い隠されてきた、一部の医師らによる数々の人権侵害。その結果としての国民の医療不信によって、より際だっている。
たとえば一九九九年二月の、国内初の脳死判定による臓器移植の例だ。ドナーとなった高知赤十字病院の女性の患者に対し、適切な延命治療が行われたのか。また脳死判定は、マニュアル通り正しく行われたのかという疑惑が持ちあがっている。こうした問題は、その後の症例にも程度の差こそあれ共通している。しかしこのような当然の疑問に対する明確な回答は、見当たらない。
脳死移植が適正に行われたかどうかを検証する厚生労働省の「検証会議」が、昨年三月から一年以上開かれずに放置されていることを、七月十八日の東京新聞が伝えている。同省によれば、国内でこれまで「法的脳死」と判定された八十七例のうち、五十五例までは「検証済み」だが、その後の作業が行われておらず、なかには、脳波検査の記録を紛失している失態も明らかになったという。
この事実に、脳死移植推進に先走るあまり、「あとは野となれ山となれ」とでも言わんばかりの関係者らの無責任な姿勢が見て取れる。レシピエントの術後の詳しい経過を伝えるメディアも少ない。「移植ネット」は臓器移植を推進する集団だから、みずからに都合の悪い情報を公表するはずはない。今回の一連の手術においても、家族の同意形成など、核心的な経過については、黙秘を貫いている。
深刻化する
「臓器不足」
「命のリレー」「愛のプレゼント」など、甘ったるい歯の浮くようなキャッチフレーズばかりが、メディアを通して喧伝されてきた。だが、その糖衣に隠された一対の「死と生」の冷厳な現実をみれば、たとえば悲しみにくれるドナー家族が「そっとしておいてほしい」と願うのは当然である。その心理を利用して、移植ネットが公開すべき情報をひた隠している、と勘繰ることもできる。
昨年の法改定は、「世界一厳しい」とされていた移植へのハードルを一気に、大きく押し下げてしまった。そもそも本人の提供意思が明確であってこそ、すなわち、双方が納得づくで移植が実施されてこそ、意味がある。
今後もメディアの無責任報道によって、移植医らは勢いづき、本来移植が適応でない患者までも、待機患者としてカウントするだろう。前述第一例目のレシピエントの主治医である大阪警察病院・心臓外科医Kは、患者の体調の悪い時を見計らって、その耳元で「移植をすれば楽になるぞ」と囁き続けたと告白している。移植医が、待機患者を水膨れさせれば、当然にも「臓器不足」が加速し、メディアは無自覚に提供キャンペーンを展開する。そこでは常に待機患者が中心にいる。交通事故の犠牲者は絶好のドナー対象になる。意識不明に陥っても臓器の損傷が少ないケースが多いからだ。
「交通事故遺族
の会」の批判
警察庁は八月十九日、高速道路と自動車専用道路の規制速度(制限速度)を緩和する新基準をまとめた。「より実態に即した運用をめざす」というが、これで事故死が増加すれば、移植医にとってはさしずめ「願ったりかなったり」だろう。この動きは偶然だろうか。
「移植よりも救護を」――「全国交通事故遺族の会」はこう訴えて、脳死公認に反対し続けている。「遺族の会の仲間には、家族が臨床的に脳死と宣告された者が少なからずいます。私たちがみた脳死といわれた家族は、温かい体と規則的な呼吸と鼓動があり、とても『死』とは思えませんでした。脳死と判定されてから、心臓と呼吸が止まるまで、看取りの時間を得ることによって、私たちは家族との永遠の別れを受容できたのです。交通事故の遺族は、『脳死は人の死』とは絶対に容認しません」。これが会の訴えである。
臓器不足の深刻化が叫ばれれば、必ずドナーとレシピエント双方に差別と選別が持ち込まれる。移植先進国アメリカでは、移植への待機期間にエスニック・マイノリティと白人、男性と女性のあいだで、歴然とした差があるという。
悪名高き「和田移植」の後遺症から、ようやく立ち直りかけたかに見える日本の臓器移植。普及への担保は「情報公開」すなわち「透明性」だった。だが「移植ネット」の態度は、旧態依然である。第二第三の和田移植はいつ起きてもおかしくない。
意思表示の強制
を許さない!
「生前に明確な拒否の意思表示がない場合は、家族の同意で摘出される」――つくづく恐ろしい法律である。
臓器移植への関心も知識もない、圧倒的多数の市井の人々に、あらかじめ「死にかた」を決めさせ、それを他人に伝えておくことを強制する。そんなことが、はたして許されるのだろうか。臓器はいったい誰のものなのか。それを提供するか、しないかという二者択一を、国家が国民に迫ること自体が、非常識極まりない。大きなお世話である。
運転免許証や保険証という一片の個人の持ち物に、人生の最後のありかたを書き込まなければならないなどと、かつてどの世代が想像したのだろうか。移植法成立まで推進派が論拠とした「死の自己決定」が、今や「死の家族決定」にとって代わった。事態を追認するマスコミは、しきりに「生前に家族で相談しておけ」と吹聴している。
残念ながら、現行法の下で臓器を提供したくなければ、その必要がある。この二項対立から逃れようとするものはやがて、非国民扱いされたりはしないか。
下世話な言い方だが、家族にはもちろん、HPやブログ、メーリングリストなどで、繰り返し自分の意思を公言しておくのがいいだろう。一連の報道によれば、提供した家族のコメントは「誰かの役に立てば」、「身体の一部がどこかで生きていれば」とどれも似通っている。「他者のためにみずからの命を差し出す」という短絡的な価値観。密室の中で、動揺し混乱する家族に対する移植ネットの執拗なオルグが、目に浮かぶようだ。
脳死と戦争の
イデオロギー
「見知らぬ第三者のために死ぬ」というイデオロギーを、私は常に戦時下の日本軍に重ねてしまう。「天皇のために、お国のために」無謀な戦争に駆り立てられた人々の悲劇を、どうしても連想するのである。
愛する家族を失おうとする極限の悲しみは、長妻昭厚労相の「ご家族の決断に敬意を表す」の一言で癒されるのだろうか。ドナー家族は、靖国の英霊ではないのだ。
百歩譲って「脳死」を認め、同じ臓器を提供するなら、親族間・家族間を優先するほうがまだましであり、自然である。しかしそれでは移植が広がらないと推進派は警戒する。
「脳死」が一律に「人の死」となった現行法では、「脳死体」は「死体」であり、何をしても許されることになる。それはさまざまな「資源」として、文字どおり骨の髄まで利用されつくすだろう。今回のいずれの事例でも、心臓、肺、肝臓、腎臓、すい臓、眼球など、主要な臓器が移植の可否にかかわらず、奪い去られている。血流と自発呼吸がない「心臓死」では、こうはいかないのだ。
メディアと移植推進派が脳死移植の礼賛報道や宣伝を繰り返せば繰り返すほど、人々の視線と心理がそこに巻き込まれていく。近親間の憎悪の爆発や、自殺者が減らない殺伐とした世相のなかで、心温まる犠牲的な美談の本質は、あの忌まわしい国家総動員、挙国一致統制と、瓜ふたつである。
「脳死」はいらない。それは「人の死」ではない。臓器移植法を廃止せよ。救命救急医療の拡大と充実にこそ、国の予算を使うべきなのだ。 (佐藤隆)
学習のために
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