| ドイツ ノルトライン・ウェストファリア州議会選 かけはし2010.9.6号 |
EU規模でも重みもつ重要結果
ノルトライン・ウェストファリア州(NRW)(ルール地方を含むドイツの伝統的工業州、中心都市はデュッセルドルフ―訳者)議会選結果は、ドイツの連邦レベルばかりかEUレベルでも、重要な出来事だった。ここは、ドイツのもっとも人口の多い州であり、登録有権者は千三百万人を超える。この選挙を評価するためには、三つの側面に光を当てる必要がある。
1.保守のキリスト教民主同盟(CDU)は相当な得票減となった。リベラルの自由党(FDP)とCDUのNRWにおける連合は打撃を受け、連邦レベルでの黒―黄色連立(CDU―CSU―FDP)、つまりアンゲラ・メルケル首相の政権は、ブンデスラート(州代表で構成されるドイツ議会第二院)の多数を失った。それは、多くの重要な法案に対して、妥協と協議という手続きを強制することとなるだろう。
2.棄権が再度増大した。これはある種底深く連続した傾向だ。二〇〇五年の連邦議会選挙では、NRWの投票率はまだ六三%だった。今回それはわずか五九・三%、投票者数は七百八十七万人強だった。これが意味することは、二〇〇五年にはまだ投票した五十万人以上が今回はそれを行わなかった、ということだ。これは、議会制民主主義の正統性の明確な危機を映し出している。とは言えこのような観点は、その解釈が依然難しい。これは単なる「反システム」的な反映ではない。そこにはまた、あきらめと脱政治化もある。また議会外の動員も弱いままだ。
3.左翼党が五%の敷居を超え、五・六%、四十三万五千八百余票を手に、デュッセルドルフにあるNRW州議会に入り込んだという事実は、疑いなく肯定的なことだ。六人の女性を含む十一人の議員団を抱える同州左翼党は、左翼党のもっとも左派的な支部だ。そしてこの支部は、公然と見えるものとなっている党内の政治論争において、その重みを増した。十一人の議員の内、六人は反資本主義左翼(AKL)潮流に属し、その内二人はISL(国際主義社会主義左翼、二つの公式分派からなる第四インターナショナルドイツ支部の内の一つ)メンバーでもある。他の五人は社会主義左翼(SL)に属している。これは改良主義左翼だが、そこには例えば、イギリスのSWPに結びついているIST国際潮流の一部である「マルクス21」が含まれている。それゆえ、「連立参加支持派」を結集し連邦レベルで党内多数派となっている、FDS(民主的社会主義フォーラム)に属する議員は一人もいない。そうではあれ連邦指導部は、今回の選挙を極めて重要と認め、選挙運動に関わった。オスカー・ラフォンテーヌとグレゴール・ギジが登壇した大きな大衆集会は、数千人の聴衆を集めた。今や左翼党は、十六州の内十三州の議会に存在している。
メルケル政権への明確な不信任
CDUは三四・六%を集めたが二〇〇五年選挙との対比では一〇%もの下落となった。これはすごい大きさだ。
ここには確かに、この大敗北を部分的に説明する固有の地方的な側面がある。それは、CDUを代表する候補となった、これから退陣する州首相ジュルゲン・リュトガースと結びついた問題だ。彼は、ハルツW法(失業給付の改悪など、社会保障制度を後退させた法、SPD・緑の党連立のシュレーダー政権の下で成立させられた―訳者)に対する社会的改良を要求したことで、メディアによって何度か「労働者の指導者」と呼ばれた。選挙運動当初彼は、メルケル連邦政府に対する反発を示す世論調査から予想されたいわば「懲罰投票」をほのめかしつつ、彼の党と黒―黄連邦政府の政策の社会的影響をわずかばかり修正するために努力したいということをはっきりさせようと、「懲罰投票は私もやりたいぐらいだ」などと叫んだ。
しかし運動の中盤になると、メディアが「失言」と呼ぶものが現れた。例えば、NRWCDUが、二万ユーロを提供できるもの全員にリュトガースとの面会を、一万ユーロでは彼の閣僚との面会を許したことが明らかにされた。リュトガースは、これについては知らなかったと主張したものの、「労働者の指導者」との彼の外見は薄れ、それは要するに、買われ雇われる、典型的な政治家のものとなった。その上彼はある選挙集会で、「朝彼らは仕事のためにいつでもやってくる。ところが何をしていいのか彼らは分からないのだ」と、ルーマニア人労働者という観念を頼りにした(もちろん、ドイツ人の職を守るために)。こうして、尊敬されるべき、言われているところによれば社会的政治家という殻から、人種主義的なドイツ民族主義者が現れてしまった!
しかしながらCDUの敗北は、おそらく何よりも、メルケルの保守―自由政権に反対する「懲罰投票」の効果に起因している。ギリシャの事態も一定の要素となったのかもしれない―しかしこれを過大評価したり、ギリシャ民衆に対する民族主義的保護主義的考えと見たりすべきではない―。もちろんすべての人は、ユーロ危機への対抗として投資される新たな何十億ユーロも、破綻した銀行の救済に支出された何十億ユーロも、それが意味することは、被雇用者と排除された者たちがその勘定書を支払うということだ、ということを知っている。メルケルと彼女の政策に対する信頼の喪失は、はっきり見えるものとなっている。彼女の政権が採用したいわゆる「負債にブレーキをかける」政策は、二〇一一年までに一年あたり百億ユーロ節約することをすでに計画している……とはいえ大企業も国防軍も傷むことはないだろう!
リベラルのFDPは、六・七%をもってその地位を維持した。また二〇〇五年選挙との比較では〇・五%の前進すら記録した。それでもすべての人はなぜこの党の敗北について語っているのか。それは、結果が昨年の連邦議会選挙と比較されているからだ。その時この党は一四%の得票があり、それは党の指導者グィド・ベスターベーレの勝利だった。主な運動スローガンは、「実質であれ総額であれ決して認めない」であり、諸税に対するはっきりとした減税を主として約束するものだった。しかし与党の実践の中では、それは、初期におけるわずかばかりを除けば実行されなかった(なかんずく、ホテル経営者に対する免税と共に)。そしてユーロ危機と共に、その方針はメルケルによって公式に放棄された。それゆえにFDPは、ちっぽけかつ不安定な選挙基盤を抱えた小党に舞い戻ることとなった。この党の危機は同時に「黒―黄」構想の危機だ。
緑の党の勝利と善意の「勝ち組」
NRWにおけるSPDの代表的候補、ハンネローレ・クラフトの勝利は、極めて相対的なものだ。彼は、CDUよりも五千票少ないながら同じ数の議員を獲得した。二〇〇五年と比較すれば、この党は二・五%失った。SPDの成功は何よりもCDUとFDPの低得票によるものだった。シュレーダーとミュンテフェリングの時代のSPDと明確な言葉上の断絶を示したその選挙スローガンは、新たなはるかに社会的な(そして少しだけより緑の)姿を取り、左翼党のスローガンをまねたいくつかの要求を掲げた。
緑の党/九〇年連合は、本物の勝利を記録した。得票率一二・一%は、二〇〇五年比で五・九%の前進だった!彼らは、SPDから十七万、CDUから九万、FDPから三万を獲得し、二〇〇五年には棄権した人びと、八万票を動員できたただ一つの党だった!その上彼らは、左翼党に対してはわずか二万票、小党に対しても同じ程度奪われるだけで済んだ。
思うにドイツの人口の中では、文化や道徳の分野で進歩的な政治にあこがれをもち、環境の課題を考慮に入れ、同時に貧しい人や排除された人たちに対して過酷さがより少ない政策を欲する、しかし同時に、依然として新自由主義政策に心を奪われ、したがって、悪名高いシュレーダー(SPD)のいわゆる「赤―緑」政権下で実践された反社会的政策(また好戦的な侵略主義)を理由に緑の党を罰することを欲しない、そのようないわば勝ち組という一つの層があるように見える。
また、政治的なものの見方の惰性というものも確かにある。最近の世論調査では、緑の党に投票した理由を聞かれた人の六〇%以上が、この党が原発閉鎖のために闘っている、と信じていた…それは単純に真実ではなく、またはるか前に真実ではなくなっていたのだが!
左翼党は逆流を泳ぎ切った
二〇〇五年五月のNRW州議会選挙では、左翼党PDSとWASG(その後左翼党を形成)(雇用と社会的公正のための選挙オルタナティブ―訳者)は別々に候補者を立てた。左翼党PDSはおよそ七万三千票、〇・九%、一方WASGは十八万二千票、二・二%を得た。急進左翼は合計して二十五万五千票、三・一%を得た。左翼党はそれゆえ、パーセントにおいても(五・六%)絶対数においても(四十三万五千票弱)両方で、前身の五年前の成績を超えた。しかしこの結果を昨年の連邦議会選のそれ―その時左翼党はNRWで、七十九万票獲得した―と比べれば、それはむしろ後退だ。にもかかわらず、五・六%によるデュッセルドルフの州議会への参入はなぜ本物の小勝利なのか。
その選挙綱領の採択の後、NRWの左翼党は、メディアと他の諸党指導者による本物の猛攻にさらされた。エネルギー部門の社会化のような要求や「ソフト」ドラッグの合法化はスキャンダルを引き起こし、社会的給付の削減、公共財産の私有化、あるいは公的部門における職の喪失を受け容れることに対する公式の拒絶は、愚かしい頑固さまた教条主義として押し出された。NRW左翼党は、依然として極左であるか「左翼主義」の過去を持った指導者を戴く、「無責任」な、「統治にふさわしくない」、「政治的であることに無能」な、「混乱の極みの」党として非難された。
SPDと緑の党は、以下のことを有権者に納得させようとした。つまり、左翼党への投票は無益であり、これまでと違う政府を作り上げる必要はなく、左翼党が州議会に入り込むことを妨げることこそ必要だ、ということだ。同時にこの圧力は、NRWの左翼党の順応を、つまり、ベルリン州やブランデンブルグ州の左翼党のように、左翼党がSPDと一緒に統治し、資本の利害という観点から緊縮政策を適用することに合意する、このことを追求するものでもあった。
CDUとFDPは彼らの利害から、選挙結果次第ではSPDと緑の党が左翼党との連立にこぎ着ける可能性がある、とほのめかした。そしてそれがSPDと緑の党に、左翼党に対するより強化された攻撃にふける、という状況を引き起こした。以下のことも心に留めておかなければならない。すなわち、選挙運動開始の時点に、左翼党右派のもっとも影響力のあるディートマル・バルチュのような代表者たちが、公開された声明を通して、「NRWにおける左翼主義者の政治的成熟の欠落」についてNRWの彼らの党を非難していた、ということだ(5月9日の成功は、少なくとも一時的には、この種の話を黙らせた)。言うまでもないが、SPDと緑の党は、共同した議会外の動員に向けた左翼党からの働きかけや提案を拒否してきた。
NRW州議会に左翼党がこれまで一度として存在したことがないという事実も、また一定の役割を演じた。世論調査では、特に選挙運動最終週には、左翼党支持が六%と出た。それより少ないこともあった。こうして、五%の敷居越えに対する左翼党の能力に関する選挙上の不確実性は残ったままだった。その上に、連邦議会のような権力を持っているわけではない州議会の構造は、普通の人びとの動員をより小さいものにする。
投票日が近づくにつれ、左翼党に不利に働く効果が強化された。二〇〇五年のはっきりした敗北の後でも追試験を受けるための土台をふんだんにもっていたSPDは、世論調査でますます得点を稼ぎ、CDUに迫った。五月九日を前にした運動最終日メディアは、CDUのジュルゲン・リュトガースとSPDのハンネローレ・クラフトの間での「抜きつ抜かれつの勝負」と予想した。おそらくこれが、左翼党に投票したいと思っていた人びとのいくらかを、彼らの票をSPDと緑の党に回すよう、最終的に導いた。これはおそらく、フランスの地方選で見られたものと似た現象だ。実際その時、伝統的な「穏健左翼」、それゆえ社会民主主義が、右翼政権という全体状況から利を受け、一方で同時に棄権が増大している。これは左翼の左翼にとって、ある種難しい政治勢力配列だ。
SPDと緑の党は、彼らの言い回しを修正し希望をいくつかつかむことができることを示した。とはいえ、あくまで極めてささやかな希望、攻撃性がより少ない政策、わずかばかりより社会的、わずかばかりより緑、わずかばかりより進歩的、というものだが。しかしSPDは、労組指導者の重要な部分、並びに伝統的かつ個人的な関係を、たとえ彼らの少数部分が左翼党への傾斜を示し始めているとしても、「連帯」の名の下に再獲得することに何とかたどり着きもした。すべての希望を殺すためにまさに多年にわたってまさに多くのことを行ってきた「穏健左翼」は、まだ死んでいない……あるいは少なくとも、それは死からよみがえる能力をもっている。
これらを見た上で、またその背景を考慮に入れ、議会外の動員が極めて低い水準にあり続けていることを知った上で言えば、NRWの左翼党は流れに逆らって泳ぐ真の成功を達成した、と言うことができる。
SPD・緑の党と協力する、が…
NRWの左翼党は棄権層の動員には失敗した。これは、特に左翼党のキャンペーンのきっぱりした急進的な構成がこの層の動員に向け計画されたものであることを考えたとき、明らかな問題点だ。キャンペーンは、社会的公正、アフガニスタンからの国防軍撤退、危機に対する富裕層の支払い、に焦点を当てていた。そして、他の諸党が統治を欲しているとしても、われわれは社会を変革したいということ、その他を説明した。集会でもメディアに対しても、われわれは以下の二つのことを語った。つまり、左翼党はリュトガースの黒―黄政権の打倒を邪魔するつもりはない、それゆえ左翼党は、あり得る赤―緑―赤政府についてSPD並びに緑の党と討論する用意がある、そして、左翼党が欲することは、人口の圧倒的大多数の利害、被雇用者、排除された人びと、若者、女性のそれに立ち、そして環境に責任を持つ、そのような大企業の利害と対立する政策変更だ、ということだ。左翼党は、社会的給付を疑問に付したり職の破壊や提案されている私有化を受け容れる用意などまったくない、ということを極めて明確に語った。
われわれの同志、ウォルフガング・ツィンマーマン(AKL潮流の一メンバー)、NRW党の二人のスポークスパーソンかつ今や党州議員団の共同代表(SL潮流に属するベーベル・ボイエルマンと共に)の一人である彼は、選挙運動期間中メディアによって、SPDと緑の党との連立問題に関しては「現実主義者」と受け取られてきた。しかしそれは、一部だけを選び取った極めて歪んだ見方だった。例えば、三月二十日エッセンにおいて彼は、「お前たちの危機にわれわれは支払わない」とのスローガンの下にデモをした七千人の人びとに向け演説し、「われわれは多分州議会の中では小さな少数派となるだろう。しかし例えわれわれが多数をもったとしても、われわれだけでは多くを変えることなどできない。なぜならば議会には権力がないからだ。権力の座にあるものは資本だ。資本の権力に対決してのみ、一つの救済法がある。すなわち、何百万の民衆の対抗圧力だ。われわれはSPDと緑の党との協力に準備ができている。しかし彼らはどこにいるのだろうか。彼らはわれわれと共になぜここにいないのだろうか。なぜ議会の中に隠れるのだろうか。協力は議会外の決起の中で始められるべきだ」と語ったのだ。
翌日、新聞や地方放送の中では、人は以下のようなことを読み聞くことができた。いわく、「ツィンマーマンは、SPDと緑の党との協力を欲している」と。それは全面的な嘘ではない。しかし、ツィンマーマンが実際に語ったことに関してはやはり奇妙な記事だ。
搾取された者の利害に立つ党へ
SPDと緑の党は選挙運動期間中、左翼党には実のある政治はできない、と繰り返した。選挙の数日後、FDPが赤―緑―黄連立を拒否したために(左翼党との討論はすべて拒絶するというその条件にSPDと緑の党が難色を示した)、SPDと緑の党は、合同の連立の可能性を探る交渉のための事前協議に左翼党を招いた。この催しは五月二十日に行われ五時間続いた。
最初の二時間、SPDと緑の党は、すでに消滅したGDR(ドイツ民主共和国、東ドイツ―訳者)に対する左翼党による弾劾を要求した。NRWの左翼党は「ブランデンブルグ州における連立協約の前文」にある定式を認めた。それは、「GDRは民主制ではなく独裁制だった」というものだ。しかしSPDと緑の党はそれ以上を欲した。つまり、「GDRは非法治国家だった」と。この意味は何だろうか。ある用語が他に言い換え不可能な場合、われわれはそこにイデオロギーを見出すことになる。法治国家が意味するものは法の上に構築された国家を意味する。しかしその否定形、「非法治」は、それが法の上に構築された国家ではなかった、ということを意味するわけではない。その用語は、超保守的なシンクタンク(CDUに近い、コンラート・アデナウワー財団)(訳注)によって何十年も前に、反共産主義に奉仕する形で人為的に生み出され押し出されたものだ。その意味は、ナチスの独裁に似た独裁であり、そしてそれは、人間性に対する最悪の犯罪に関わった。これは、いわゆる「全体主義」というブルジョア理論の中での、「ファシズム」と「社会主義」の同一化だ。左翼党の代表団はそれを受け容れることなどできなかった。
三時間目は、第二のテーマが討論された。つまり、憲法保護局、「憲法の敵」に対する「包括的な」秘密スパイ機関だ。そしてそれは、他のものと共にNRWの左翼党をこっそり調べている。左翼党はこの機関の調査計画にある左翼党調査の解体を要求した。党の代表団はすぐに、以下のように明らかにした。「われわれは五・六%を代表しているにすぎない。われわれは次の五年の任期中、この方向での働きかけはすべてあきらめる準備をすでにしている。われわれはあり得る連立協定においてはこれに署名する用意がある」と。しかしSPDと緑の党はそれ以上のことを、つまり、左翼党が先の機関を強化するための特別基金に賛成投票することに同意すること、を求めた。ここで左翼党代表団はそれに従うことをせず、われわれはむしろ憲法保護局に関する支出の削減を考えるべき、と意見を述べた。
SPDと緑の党が経済政策と社会政策に取りかかったのは、上述した二つの問題の後にすぎなかった。彼らは州立銀行私有化の開始を受け容れるよう求めた。彼らは、公共サービスの八千三百にのぼる職を更新しないことを受け容れるよう求めた。彼らは、確固とした社会的基準に対する攻撃を含む、いわゆる「予算統合」政策を受け容れるよう求めた。左翼党はこれを受け容れることなどできなかった。「選挙運動ではわれわれは、他のやり方を述べてきた。…それは君たちも同じだ!」と。それにSPDのクラフトは、何と「選挙が終われば、計画すべては現実の検証に従うべきだ」と応じたのだ。それに対する左翼党の回答はこうだった。「われわれはますます高まる棄権がなぜあるのかを一層よく理解するようになっている。選挙の前に約束したことの逆を後で行うことは無責任だ」と。こうして討論は終わった。今やSPDはCDUとの討論を働きかけることとなった。
SPDの多くの下部活動家といくらかの緑の活動家は、彼らの指導部が左翼党との協議を攻撃的に意味のないものとしたやり方に、うんざりしている。左翼党は今、野党の仕事に焦点を当て、それを社会運動と戦闘的な労働組合に緊密に結び付けることを望んでいる。州首相のポストに対するクラフトとリュトガース、あるいは他の候補との勝負に際しては、左翼党はすでにクラフト支持で準備ができている。「変動する多数派」と一体となったSPDと緑の党の少数政権という場合には、左翼党は、いかに投票するかを問題毎に決めることとなるだろう(SPDと緑の党は、保育園、学校、大学などの分野で、例えばいくつかの進歩的な改革を求めている)。しかしクラフトは、州議会での少数政権という可能性をすでに公然と排除してきた。それでもやはり、幅広い黒―赤連立あるいはリュトガースが率いる暫定的な少数政権にぞっとする思いを抱いている多くの勤労民衆の感情に押されて、この提案を公然と生き返らせることが必要となっている。
SPDと緑の党との瀬踏みの話し合いを前に、左翼党は準備のために、三つの地域(ライン、ルール、ウェストファリア―ルッペ)協議会を組織した。話し合いの後の日曜日には、地方大会が話し合いにおける党代表団のやり方に承認を与えた(その裁定もまた、党の連邦執行機関で承認された)。
代表団が連立協定に署名した場合には、引き続く手続きは以下のように想定されていた。つまり、a)それを討論するための新たな三つの諮問地域協議会。b)決定のための特別地方大会。c)大会決定を拒否するか承認するかによって、問題の最終的決定を党の九千人近い党員に可能とするための全員投票。
左翼党は党が抱えるさまざまな問題を解決したなどとはとても言えない。われわれはこの党を、工場、サービス事業所、大学、学校、居住地域、社会運動、労働組合の戦闘的な翼に根を張った、真の闘争の党へと作り上げることに挑まなければならない。しかしNRWにおいてこの党はすでに抜群の党だ。なぜならばそれは、その党員によって統制され、―われわれの伝統的な用語に従えば―労働者階級のまたすべての搾取された者、抑圧された者、そしてもたざる者の利害に忠実であるからだ。(以上、一部省略した)
〈訳注〉コンラート・アデナウワーは、冷戦時代に長く西独首相を務めた反共政治家。
▼筆者はISL調整委員会メンバーかつケルンの左翼党党員。また、NRWにおいて「WASGに近い」と見られ、連邦レベルで活動している教育目的の協会、SALZe.V.の教育責任者でもある。(「インターナショナルビューポイント」2010年8月号)
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