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|●沖縄・ 反治安出動闘争の成果を引き継ぎ、21世紀にむけて強力な青年の隊列を
|●反サミット沖縄現地闘争に参加して
| 国境を越えた連帯を実感………………………………………………………ふじいえいご
| 歴史の真ん中を歩いた4日間………………………………………………………大仲 恵
| 沖縄は熱かった(そして暑かった)………………………………………………板橋道雄
|●座談会 少年少女たちの事件をどうみるか
|●日本の農業と三里塚 加瀬 勉さんの提起
|●自治体現場から検証する防災訓練 …………………………………………川野わたる
|●学習ノート ローザ・ルクセンブルクの組織論(2)…………………………中野新一
|●過渡期経済論・労働者国家論(1) …………………………………………早野 一
|●アジアと日本のいまを考える(2) …………………………………………志村七蔵
|●映評「人狼(JIN―ROH)」 ………………………………………半田しのぶ
|●連帯を求めて(30) ………………………………………………………………萩原邦彦
七月十九日から二十二日までの四日間、アジア連帯講座と「新しい反安保実」の人々は、「反サミット沖縄現地闘争」に参加した。
灼熱の太陽が容赦なく照りつける沖縄現地。結集した数万の「基地撤去、G8サミット反対」の声は、嘉手納の空に響きわたり、つないだ手は、極東最大の米軍基地を、完全に包囲した。
一八日午後五時一五分、早めに家を出た。四泊五日という日程のため荷物も多く重くなる。出発一時間前に集合だが、六時半には羽田に着いた。集合場所にはもう数人の仲間の顔が見える。「警備警察官二万人体制」が数か月も前から打ち出され、「公安ウラ部隊」による仲間に対する尾行も早々と発覚した。
七時四八分、搭乗手続き開始。搭乗口に移動する。地方から羽田にきたなつかしい仲間と近況報告。仕事帰りにそのまま参加する者もいる。柱の影には、参加各団体担当の公安デカが陣取っていた。デモで見かける「お馴染み」の顔も来ている。
「奴らも乗りこむのか?」
緊張が高まる。我々もにらみつけて牽制する。
八時に機内へ。どうやら私服は乗っていないようだ。ツアー参加者三〇人を乗せた全日空八九便は、八時半ちょうどに、滑走路から機体を浮かせた。
一〇時三十三分、飛行機は無事那覇空港に着陸した。空港の出口には、サミット関係者の到着を案内するボランティアに混じった私服が目につく。しかし、ボディチェックなしにバスに乗り込む。約二〇分バスに揺られた一行は、十一時二十五分、ホテルに到着。明日からの闘いに備える。
十九日、快晴。七時起床。この日の行動は「南部戦跡ツアー」と夕方の集会。朝食をホテルで済ませ、八時三十五分にマイクロバスで出発した。
バスにはガイドの女性Tさんが添乗している。
九時に「南風原陸軍病院跡」に到着。バスを降り、石段を数段登るとすぐに慰霊碑が見える。この石碑には「重症患者二千余名自決の地」とある。
この陸軍病院はかつて国民学校だった。那覇にあった沖縄陸軍病院が、四十四年十月の空襲で全滅したためここに移動してきた。映画「ひめゆりの塔」(※1)の舞台となった地である。黄金森とよばれるこの地に本部壕、第一・第二外科壕、向かい側に第三外科壕が掘られた。二〇本以上の横穴は縦横に貫通し、収容能力四千名と言われた、もっとも安全な場所であった。
「看護婦」として駆り出され従軍した女生徒五五〇名のうち、三三九名が悲惨な最期を遂げた。
石碑の正面には「悲風の丘」なる真新しい石碑が建っている。六六年に佐藤栄作によって建立されたこの碑は、南部戦跡を「英霊」として崇める走りになったという。
一〇分程の説明を受けた一行は、九時半、玉城村の糸数集落にある糸数壕(アブチラガマ)に到着。地元のHさんの「平和ガイド」で、一人ずつ中に入る。「懐中電灯持参」はこの時のため。腰をかがめて急な傾斜を下る。湿っていて滑りやすいので慎重におりる。入り口は狭いが中は広い。全長二七〇メートルの鍾乳洞である。
一九四四年夏、沖縄守備軍美田連隊は、この洞窟に地下陣地を造った。しかし米軍が予想に反して北谷・読谷海岸から上陸してきたために、部隊は中部戦線に移動した。放置された地下壕は住民の避難場所として利用された。そしてここに陸軍病院の「分院」が開設され、南風原から患者が移送されてきた。最高で千名の患者を収容していた。
壕内は湿度が高く真暗闇である。恐る恐る歩を進める。当時の壕内の構造を示す立て札があちこちに立っている。「死体安置所」の近くでHさんの説明を聞く。
沖縄に数ある壕(ガマ)は、沖縄戦の悲劇の象徴として、多くの人々に語り継がれている。そこは「病院」とは名ばかりの「収容所」であり、文字通り阿鼻叫喚の世界であった。
食糧はもちろん、薬や医療器具が決定的に不足していた。負傷兵の腕や足の切断が、麻酔なしで行われた。わめき叫ぶ兵士をひめゆり部隊の少女たちが、必死で押さえつけた。傷口にわいたウジ虫を取り除くのも彼女たちの仕事だった。初めは気味が悪くても次第に感覚が麻痺し、何とも思わなくなった。食料調達から傷病兵の排泄の世話まで、血と膿の悪臭が立ち込める空間で、彼女たちは不眠不休で働き続けた。
沖縄は国内で唯一、軍隊のいない県であった。四四年三月、約一〇万人の「沖縄守備隊」が島に上陸した。校舎や集会場や民家が兵舎に変わった。学徒たちは飛行場建設や陣地作りに動員された。住民の誰もが日本軍を頼もしく思い、日本の勝利を確信したという。
しかし、軍隊は住民を守らない。この言葉の正しさは歴史が何度も証明している。守るどころか、戦場において直接間接に軍に殺された住民は数えきれない。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という皇軍\天皇の軍隊\の戦陣訓は、あらゆる住民に強制されていった。泣き声が敵に聞こえるという理由で、容赦なく子供が殺された。軍は住民に美徳として「自決」を強要した。一方、壕のなかでは住民を入り口近くに追いやり、盾にして、自分たちは奥のいちばん安全な場所を陣取った。外では米軍の猛攻撃のなかを戦闘放棄し、住民そっちのけで逃げまどっていた。米軍の圧倒的な攻撃の前に、日本軍は無抵抗であった。
沖縄戦は事実上、中部戦線で勝敗は決していた。もしこの段階で守備隊が降伏していたなら、南部での「悲劇」は起こらなかったと言われている。しかし、第三二軍の司令官牛島は南部への撤退を命じ、「戦略持久の玉砕方針」のもと、さらに犠牲者を出し続けた。こうして住民は死の道連れとして、南部に流れ込んでいったのである。
「暗闇がどういうものか体験してみましょう」。
Hさんは静かに、ライトを消すように言った。みんなの手にあった電灯が消えてゆく。
一瞬の静寂が支配する。真っ暗闇である。「暗闇に目が慣れる」ということがあるが、あれはどこかに微かな光があり、開いた瞳孔がその光を網膜に運ぶから物が見えるのである。しかしここにはまったく光がない。周囲に人がいると分かっていても、私は言い知れぬ恐怖を感じた。
修学旅行でガマに入った生徒たちは宿舎に帰ったその夜、騒ぎもせず静かに床に就き、教師たちを安心させるという。彼らの心理がわかる。暗闇のなかで沖縄戦の悲惨な真相を聞く体験は、「ムカつく、キレる」子供たちにも少なからぬ影響を与えることだろう。貴重な教育現場として、伝え語り継いでいかなければ、と痛感した。
約一時間の壕内体験のあと、外に出た。この明るさ、太陽のまぶしさこそ、平和の喜びなのだ。Hさんに礼を述べバスに戻った一行は、平和祈念公園へ向かう。車中ではガイドさんが沖縄の方言について詳しく説明してくれた。
十一時ちょうどに平和祈念公園に着く。園内に一歩入ると、他の入園者の姿が見えない。そのかわり、広大な敷地の彼方にポツンポツンとカラスのような人影が動いている。「何だろう」。さらに進むとそれが警備の警官であることに気づく。真っ青な空の下、固まった一群と点在する黒い影、異様な光景である。
公園内の「県立平和祈念資料館」はもともと七五年に開設された。現在の建物は九五年の「平和の礎」の建立に伴い、場所を移動して新たに建設され今年四月にオープンした。(「平和祈念資料館問題」については「かけはし」二〇〇〇年四月一七日号参照)
入口で入場券とリーフレットを受け取り、中に入る。
二階の「歴史を体験するゾーン」では、当時を再現する造形物が並ぶ。ミニチュアやビデオ、レーザー光線や大型モニターなどハイテクを駆使した展示が目を引く。住民に銃剣を突きつける軍人のセットもある。しかしもっとも参加者の関心を集めたのは「証言の部屋」である。県民が目撃した戦場の様子を、彼ら自身の言葉で綴った本が並べられている。B3版ほどの見開きには、大きな活字で証言が綴られ、スポットの光で薄暗い部屋に浮かび上がっている。この原始的な展示方法は他に例がないというが、最新鋭のAV機器による演出よりも鋭く入館者の胸にせまる。
会館の出口に集合した一行は、「平和の礎」「平和の火」へ。ガイドが付いているからかここには警官の姿が見えない。二日後の二十二日、クリントンはまさにこの場所で、「演説」を行った。
集合写真を撮った後、「摩文仁の丘」に登る。照りつける太陽を遮るものは、自分の帽子だけである。
石段を上がりきると、道の左右に各県の慰霊碑が立ち並んでいる。「NHKの碑」などもある。さらに登ると「勇魂の塔」そして「黎明の塔」に至る。
南部戦跡は国定公園に指定され、霊園整備が進み国立墓苑となった。真新しい慰霊碑群の数々は、南部戦線で自決したとされる将校(牛島司令官ら)を祀る「黎明の塔」を頂点とした「英霊顕彰」に組み込まれている。毎年の「慰霊の日」の公式行事として遙拝されるという構図になりつつある。「観光ガイド」を職業とする方々は、とかく歴史上の権力者を「英雄」として美談演出して解説する。それが仕事なのだが、大切なのは、抑圧された人民の歴史である。
一時間弱の徒歩の後にバスに乗った仲間は、昼食場所に移動する。この日の昼食はオリオンビールのジョッキ、天ぷら、沖縄そばとボリュームがある。なによりも冷えたビールは、汗が流れる体には快楽の一語に尽きる。この売店には沖縄戦に関する書籍も豊富に並んでいて退屈しない。
三十分の食事休憩をとって「ひめゆりの塔」へ。隣接する「平和祈念資料館」にも訪れる人々は多い。各々献花をし、資料館へと足を向ける。館内の展示でも特筆すべきは「第四展示室」の壁一面に貼られた女生徒たちの顔写真であろう。純粋可憐な少女たちが戦争に「協力」し、この世の地獄を見ながらうら若き命を絶っていった事実が、重く胸にのしかかってくる。沖縄戦の惨劇の「特殊性」を我々は忘れてはならない。
約五十分の見学を終えて、バスで「魂魄の塔」へと移動する。米須海岸は南部戦線の中心地であった。全国の慰霊の塔のうち早い時期に建てられたものは、この魂魄の塔の周辺に集まっている。小さな山のように円形に盛り上がった塔には、三万五千余の遺骨が納められていた。摩文仁の丘に移葬されるまで、その数は四万近くに上った。沖縄は県全域が戦場となったため「県の塔」を持たない。毎年の「慰霊の日」に参拝に訪れる遺族でもっとも賑わうのがこの沖縄の塔=魂魄の塔である。
戦跡ツアーはここを最後に、ホテルへと帰路についた。車中でガイドさんが熱唱した喜納昌吉の「花」に、参加者は大きな拍手を送っていた。
ホテルで約二時間の休息の後、六時にロビーに集まった仲間は、那覇市教育福祉会館での「基地・軍隊に反対する交流集会」(主催・平和市民連絡会)に向かう。タクシーに分乗して約十分で会場に着いた。
会場ではすでに国内外の運動団体による共同記者会見が行われていた。会場は満席である。開会一時間半後に本集会が始まり、琉球舞踊などのアトラクションが披露された。その後テーブルは並び変えられ、沖縄料理とビールで埋まった。参加者は交流を深めていた。一行は九時にホテルに帰還。一日目の行動を終えた。
大成功だった「人間の鎖」
二日目、快晴。七時半起床。十時四十分、マイクロバスでホテルを出発。一路嘉手納へと向かう。出発して十五分、途中のスーパーで下車し昼食の買い出しをする。炎天下には水分も欠かせない。車窓からは隣を走る労組動員のバスも見え、意気が上がる。同じ行動をする仲間と、道中で思いがけず出会うということは、大きな励みであり歓びである。これが闘いの醍醐味でもある。運動の大きさを痛感する。この日の「人間の鎖」は地元紙に全面広告が載る全県民的な闘争なのだ。
十一時五十分に国道沿いで降車し、嘉手納町役場まで歩く。ここで昼食休憩が一時間。水と氷を両手にしっかりと確保する者、ビデオ撮影の準備をする者、横断幕を準備する者、いやがうえにも緊張が高まる。
午後一時、いよいよ基地に出発だ。自分たちの位置は基地全体のどの辺なのだろうか。とにかく歩きだす。二十分で所定の陣地に到着。右手には四mはあろうか、大きな石のまるで刑務所のような壁があるのみである。向こう側はまったく見えない。横断幕を立てかけ、
「沖縄に米軍基地はいらないぞぉ」
「米軍はアジアから出ていけぇ」
基地に向かってシュプレヒコールを叩きつける。
二時から十分間、第一回目の「鎖」だ。塀に向かってつないだ手を高く上げる。
道路を宣伝カーが走りながら指示を出す。二度目は二時半から十分間、塀を背にして道路側を向き手をつなぐ。三度目は三時、再び基地に向き合う。この後、何度となくつないで手に「ウェーブ」が起き、参加者たちは「基地反対」の意思表示を続けた。二七一〇〇人の「怒り」が、極東最大の軍事基地を完全に包囲した。
一行は三時半に「嘉手納文化センター」に戻り、四時からの「基地・軍隊に反対する交流集会」(主催・平和市民連絡会)に参加した。
集会の寸劇では「基地売り」に扮した女性が舞台から客席に降り、参加者に「基地はいらんかねー」と問いかける。指された参加者は「いらない」と答える。女性は「何故だね」と突っ込み、一人一人その理由を発言する、という演出で、会場はわいた。
名護現地デモを貫徹
二十一日の朝は早い。八時半にホテルを出発し、一路サミット会場のある名護市をめざした。途中のSAで約一五分の休憩。高速道路にはほとんど車がなく、安定した走行をした。
途中、道路脇の草むらを検索する警官を何度も見かけた。この炎天下に暑そうな制服を着込み、直射日光をもろに浴びている。しかも、約五〇〇メートル毎に一人なので、担当範囲がめっぽう広く孤独である。全国から動員された部隊であろう、不慣れな土地で過酷な任務を全うしている。しかし同情は禁物である。
十時にバスを降り、十分ほど歩くと会場の「さくら公園」。すでにある党派は前段集会で気勢をあげている。本集会は十一時半に始まった。
まよなかしんやさん、島田善次さん、知花昌一さんをはじめ、諸団体からの発言を受けた。
十二時半にデモに出発。商店街を抜け、大通りを通って、サミット会場である万国津梁館と反対側の海岸についた。約一時間半の炎天下の長距離デモを貫徹した三五〇人の隊列は、海にむかってシュプレヒコールを繰り返した。
この後、徒歩で歩いてきた国道を戻り、バスが停めてある駐車場に向かう。
車内では、昨日の新聞をまとめて買ってきた人がいて、沖タイと琉球新報を一部ずつ買った。どちらにも昨日の闘争が大きく載っていた。
四時四〇分にホテルに着き、三〇分ほど休憩を取った後、市街へ散策に出かけた。
滞在最終日の闘い
滞在最後の二十二日は七時起床。八時過ぎにはホテルを出発して、名護に向かう。昨日は途中の検問を想定して早めに出発したが、結局何もなかった。この日は途中のSAで三十分の休憩を取る。それでも十時半過ぎにはさくら公園に着いた。
昨日と違う場所に座り集会に加わる。参加者はおよそ四五〇人。車椅子や子供連れの参加者もめだつ。昨日と同じように、まよなかしんやさんの発言で集会が始まる。一坪反戦地主の安次さん、韓国やスリランカなど海外からの参加者も多い。
十一時半デモ出発。公園の裏手を行くコースは同じだが、途中の大通りを昨日とは反対に右折した。商店街の中を気勢をあげる。道幅が狭いため、片側を占拠する。さらに左折を二回、出発したさくら公園が終着点だ。この日も炎天下。約一時間のデモだった。
一時前にバスはナゴ市を出発。途中のSAで昼食を取る。二時四十五分にはホテルに着いた。
これで、「カデナツアー」の統一行動はすべて終えたことになる。
この後、有志で牧志公設市場へ買物にいく。私は二度目の沖縄だが、ここにこないと沖縄に来た気がしない。市場の二階は食堂郡で軽く夕食を取り、三々五々買物に出かける。
五時半にホテルを出発。一路那覇空港へ。三十分で空港に到着。一行を乗せた全日空機は、八時過ぎに離陸、十時二十二分に羽田に着陸した。
帰りのモノレールの車内では、安室奈美恵のサミットイメージソング「NEVER END」とやらがかかっていた。小室と安室お得意のわけのわからぬ曲だ。死んだ元首相小淵の細君が客席でこの歌に涙した映像が、「サミット美談」として白々しく演出された。
疲れた身体に、聴きたくもない歌を聴かされるのは迷惑千万であり、不快このうえない。旅行帰りだろうか若い女性の同乗者も辟易していた。「サミット号」なる列車も走っていたらしい。自宅に着いたのは午前零時十分。
かくして、帝国主義者たちの世界支配のお祭り騒ぎは終わり、三度目の「基地包囲闘争」は、主催者の予想をはるかに越えた結集で大成功に終わった。連日の炎天下の集会と長距離デモも最後まで闘いぬかれた。これから何度でも沖縄を訪れ、現地の人々の熱気に触れたいと思う。
横断幕に鮮やかな書かれたSTRORNGな主張。
「G8による世界支配反対! 資本のグローバリゼーション反対! 軍事のグローバリゼーション反対! 米軍は沖縄から出ていけ! 」
沖縄の熱い4日間は、忘れられない闘いとなった。
(※1)沖縄から帰った私は、さっそく前述の映画をビデオで観た。馴染みの女優が演じる清潔な生徒たち、実際の苛酷さは映画の比ではないだろう。出演者らのメイクがきれいで、リアリティに欠け、軍による住民虐殺・虐待のシーンもほとんどない。それでも当時の光景は伝わってくる。この「ひめゆりの塔」は三作目である。
九五年・東宝。原作/仲宗根政善 監督/神山征二郎。沢口靖子/永島敏行/後藤久美子/中江有理。
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