「青年戦線」最新号より

2000年9月20日・No.155より

|●沖縄・ 反治安出動闘争の成果を引き継ぎ、21世紀にむけて強力な青年の隊列を
|●反サミット沖縄現地闘争に参加して
| 国境を越えた連帯を実感………………………………………………………ふじいえいご
| 歴史の真ん中を歩いた4日間………………………………………………………大仲 恵
| 沖縄は熱かった(そして暑かった)………………………………………………板橋道雄
|●座談会 少年少女たちの事件をどうみるか
|●日本の農業と三里塚 加瀬 勉さんの提起
|●自治体現場から検証する防災訓練  …………………………………………川野わたる
|●学習ノート ローザ・ルクセンブルクの組織論(2)…………………………中野新一
|●過渡期経済論・労働者国家論(1)  …………………………………………早野 一
|●アジアと日本のいまを考える(2)  …………………………………………志村七蔵
|●映評「人狼(JIN―ROH)」     ………………………………………半田しのぶ
|●連帯を求めて(30) ………………………………………………………………萩原邦彦 


座談会

少年少女たちの事件をどうみるか
青年を語るC 

司会 「青年を語る シリーズ3」ということで座談会を行いたいと思います。
 今日のテーマは、この間連続して発生している「十七歳の事件」。青年・学生を組織する我々としては、次世代に対してどのようにアプローチしていったらいいのか、我々に対して鋭く問題提起をしているのではないか。
 それぞれの経験と価値観と世界観によって、見方や評価が違うと思うので、当然幅があると思いますけども、そのへんの違いを突き合わせながら、どういう形でオルグしていけばいいか。我々自身が問われていることは何なのか、というところまで掘り下げて討論ができればいいなと思います。

 「生きる意味」を考えているか

F 週刊誌などを読んでいると識者のコメントが出ているが、いまいちピントこないなという感じだった。例えば、人間関係を知らないとか、核家族で人とのつながりがないとか、そんなのは今に始まったことじゃない。それだけを原因にするのもどうかなと思う。実は自分の正直な気持というのは、やっぱり今の高校生などを見ると「あまりにも乱れているな」というのがある。服装とか行動とか。規範に従えというのではなく、いつからあんな感じになったのか。何かきっかけがあるのか。理解できない。

D 昨日、NHKで「十七歳の衝動」という特集番組があった。感想を言えば、内容的には粗忽のない作り方で、それほど目新しい視点はなかった。ネットの効果を否定的に語る者が多く、ネットが人間疎外をしているとよく言われるけど、反面、コミュニケーションの一手段として、閉ざされていたコミュニケーションが回復されていく手段になっているというのは、確かにあると思う。そのへんをちゃんととらえていたのが、マスコミの中では目新しい視点かなと思った。
 実際にネットがマスコミュニケーションの手段として、非常に発達しているわけで、そのへんは肯定的にとらえるべきではないか。

C 今の十代と俺の十代のころと、何がそんなに違うのかなと結構不思議でして、××県だったから「日の丸・君が代」強制の状況というのは、俺の時代からあったし、教師の体罰とか、いじめなんかもあった。俺に関しては、親の暴力もあった。三歳ぐらいから親と取っ組み合いの喧嘩をしてきた。そして、親をぶんなぐって、最終的に喧嘩をしなくなったのが十七歳だったかな。
 たとえば、水戸や栃木で知り合い同士が「暴力・被暴力」の関係になって「拉致・監禁」みたいなことをやって、殺害したり、されたりという事件があった。俺の時代には、そこまでのはなかったように思います。生活する上で関わる他者との関係性が、暴力性で結ばれているというのが俺らの時代よりあるのかなという気がしていますけどね。この対談でそこを考えていければいいけど…。

H 事件をめぐってというか、少年法改悪をめぐってとか、いわゆる強権化の問題がテーマとして設定されるべきだろう。もっと一般的には、少年少女たちが置かれている社会的状況についてどのように考えるのかということだろう。
 NHKの番組に少年が、「自分が透明な空気みたいな存在だ」と言っていた。つまり、周りから無視されて、存在価値がないということが理解できるか、ということだと思う。意味を持たせなければならなくなっているでしょ。別に意味なんかなくたって生きていくことはできるわけですよね。生きる意味をいちいち自己確認しなければ生きていけないのではなくて。
 我々の親の世代は、おそらく自分が生きる意味を問わないで生きていた。もっと言えば、江戸時代なんかもそうだったのではないか。わかるかな、言いたいことが。

B 生きていくことそのものが大変な時は、生きている意味なんて考える余裕すらなかった。そういうニュアンスでしょうか。

H そういうことだが、もっと言えば、「近代自我」ということで、自分で自分を共同体から独立した個人として、生きる意味を自分で見つけるしかないわけでしょ。共同体が解体されていることだ。

G 「共同体の解体」と言うけれど、家父長制なんかは解体されたほうがいい。共産主義社会というのは、「自由な人間の自由な連帯」でしょ。そういう意味でちょっと違うんじゃないの。

H いずれにしても価値とか、意味とか、関係の中でしかわからない。

E 「パラサイトシングルの時代」という本が出たが、この中で失業の問題とか、失業しても若者が立ち上がらない原因らしきものが書いてあった。非常に興味がある内容だった。同時に、今の資本主義体制を救済するための方法として寄生する若者を外に出せと言っている。要するに、右からの自立史観と言うか、そういう形で「寄生虫」のように巣にとどまっていて外に出ようとしない。この発想自体は、差別的だ。例えば、障害者とか、女性を含めて一刀両断に切り捨てる発想として、非常に差別的であった。
 関係性の崩壊ということで言えば、その中で何が残るのか。虚無感とか、憎悪や怒りというものが、結局、弱い者、寝ているおっちゃんをひっぱたいたり、同級生に金をせびり取るために集団でリンチするとか、そういう方向に向かっている。この事態をどのようにとらえ直すのか、ということは、青年運動を担う立場から大事な問題だと思います。

  掘り下げの足らないコメント

B 「かけはし」の読売改憲試案批判の中で「腐敗しきった社会にやり場のない怒りが無方向で爆発するようになったのは、むしろ当り前なのだ」と労働運動が後退して、希望が持てない云々と言っていたが、こういうレベルでいいのかなという感じがある。週刊誌なんかを読むと、常識的なことが書いてあるでしょ。右派言論なんかは、少年を射殺してしまえ、少年法を改正しろ、厳罰でやれと言っている。さらにどうして起るのかというのも、インターネットが悪いとか、残酷なゲームがどうのこうのと、サカキバラセイトと同じ年だとか言っているが、 そういうのはいかにもマスコミが書きそうな事、こんなことしか言えないのかなと思う。
 それじゃ僕らはどうなのかと見た時に、いかにも左翼が言いそうなことしか言えないでいる。「希望をさし示さない」と言った時に、もっと深く考えた時、この程度しか言えないことを掘り下げないと、青年を組織できないのではないか。

G 日本資本は、階級的団結の解体を徹底してやったわけだ。そのうえでの疎外感がある。朝日新聞の「声」で予備校生の投書が出ていた。この中で「どうしようもない世の中を作った大人たち」に対する怒りを表わしていた。そして、自分が「抜け殻」になってしまっていることに対して、どうしようもないものを感じていることがわかる。

司会 この間のマスコミ報道のキーワードに「引きこもり」がある。「引きこもり」=u凶悪」という問題の立て方がある。そこには、「引きこもり」は子供の問題である、「引きこもり」は犯罪に直結している、という二つの大きな誤解がある。
 少年少女たちの犯罪を歴史的に見ると一つの象徴的な事件として八三年の横浜の野宿者に対する襲撃事件がある。この事件を契機にいじめの問題がクローズアップされていった。弱い者が、さらに弱い者に対して向かっていく。野宿者に対する襲撃は、少年たちの犯罪として大きな衝撃を与えた。さらに八五年からテレビゲームの大ブームになり、サカキバラ事件。
 さらに衝撃的だったのは、八九年の「女子高校生コンクリート詰め殺人事件」だった。この事件は、二階で女子高校生を監禁状態におきながら、一階には親たちがいる。だが親たちは何にもできないでいた。非常に衝撃的だった。
 九〇年以降、少年少女たちの犯罪が、だんだん凶悪化している。例えば、昨年だけで刑法犯で検挙された十四歳から二十歳未満が十四万一千七百二十一名、一昨年から一万五千六百六十四人増えている。犯罪内容が殺人、強盗、放火、強かんの検挙数は、二千二百三十七人で三年連続で二千人を越えている。
 これは氷山の一角だと思うんですけれども、こういった形で八〇年、九〇年を通して増えてきた、かつ事件が凶悪化していったというようなところがある。
 これに対してマスコミは、なんと言っていたかというと、ゲームとネットですね。それを格好の材料に取り上げて批判キャンペーンを展開している。これについてどのように考えるのか。例えば、格闘・殺人ゲーム、暴力漫画なども氾濫している。こういった環境の延長線上に実際に暴力を行使するという見方がある。この見方に対して「短絡的なんじゃないのか」という批判があったけど、どうですか。

B 短絡的というよりも、こういう言い方では若者の心に響かないんじゃないか。かつ若者たちから見て、週刊誌などを読んで「こんなことしか言わねぇのか」という反応しかないだろう。

司会 参考までに週刊誌などでちょっと気になる発言を紹介する。
 「これまでの事件は、旧来のパターンがあてはまらないものだから、あとづけでw知識人たちxが言っているにすぎない」、「自分の子供観の範囲でコメントしていない」、「サカキバラセイトに共感して事件を行っている。ヒーロー視している」、「サカキバラみたいなカリスマ犯罪が起きると、少年犯罪が多発することは予測できた」、「犯罪を行うのに理由がないやつもいる。殺したくて殺すやつがいる」、「今の十七歳は人生を見透かしてしまっちゃっている。今の世の中で清く正しく法を守って生きていかなければならない根拠はどこにもないと気づいてハスに構えちゃっている」、「十七歳が悪いのではなくて、その個人が悪いんだ。同じようにくくってもらいたくない」、「この事件に対して精神病理的に説明するのには無理がある。それよりも一つの時代が終わるような気がする。バブルの崩壊、冷戦の終了、社会自体が目的を失ってしまった。弱い側の人間だということ。弱い人間は、自分がやられた時、より弱い人間を数倍攻撃するという心理構造が根底にある。ナチスのユダヤ人排斥もそういうものでしょう」、「殺すという一線を越えちゃえば、そのままどんどんいっちゃうよ」。「意味のない目的とか、衝動ってよくありますよね。性的欲求のはけ口がない十七歳」、「自己証明のための無意味な殺人」、「今回の事件の犯人は、いじめられっ子。自分のエゴを満たす方法がみつからなくて、自爆するしかなかった」。
 このように通常出てくるコメントとは違う形で言っている。再び戻るけど、ゲームとネットの問題って本当にそうなんだろうか。子どもたちの事件は、大人社会の反映なんだと、大人たちを見ろと、まったくひどいじゃないかと。権威がない警察、国会議員、官僚たちはめちゃくちゃなことをやっている。なぜ俺らがいい子を演じなければいけないんだと反発している。

  弱者が弱者を差別

G コンピュータとゲームが直接、犯罪とは結びつかないと思う。インターネットは、世界が広がっていいのではないか。

C 「結びつかない」と言いきるのは、どうかな。「世界」の人間とどれだけの目的があって話をしたいのか、が問題なのでは。最近、俺自身もチャットとかやったりしているんですが、九九%の人が漠然と話をしたいという感じだし、ある意味では俺もそうなんですけど。ヒマで寂しいから、これに参加するという人が多いと思うんです。
 今の青年の特徴のひとつに弱肉強食思想があるというか、石原の差別暴言を支持する風潮が若い人にも広がっている。弱肉強食思想はブルジョアジーが言う分にはわかるけど、弱肉側の人間が言うなよと。弱肉側の人間が弱肉強食と言ったら、暴力は弱いほうに向かうしかないと思いますよね。
 ネットは無規制状態だ。罵詈雑言、差別性、そんなの誰も規制できない。町中で言えないことが、ネットだったら言えてしまう。差別語、女性差別がたくさん使われている。疎外された人間が商品によって消費させているというか、資本によって疎外された人間がネットで組織されているのではないかなと思う。そういう意味でネット社会が歪むのも当り前だ。現実の人格とネットでの人格は別なんていう人も多い。ネットでの「もう一人の自分」なんてキャラクターを固定化するとか…。三〇歳過ぎて、全人格を賭けてネットで他者と格闘している人なんてのも多いけど…。そういう人は、やはりどこが荒んでいるように思える。
 俺はチャットで差別語を使わないようにしている。使う人には指摘している。

B インターネットは、そういう少年犯罪を助長しているということか。

C 「掲示板」でのいじめなんてのもあるし、差別がネットでも蔓延することによって、そういった暴力性を助長している面はありますよ。逆にそこからネットが救い出せるのか。さっきの自意識じゃないけど、しっかりしている人は、自分の生活の一部としてネットとしてつきあえるけど。もし引きこもっている人間がネットに浸っていたら、やっぱり暴力的になるということがあるだろうし、そういう人は生み出されるだろう。この間、チャットをやっていてそう思いましたね。

F 「バイオレンスもの」のゲームに関して言えば、やはりこの間の事件と無関係ではないと思う。例えば、会社の後輩たちを見ていると、それぞれに特徴があって、それぞれの世代の文化があって、そういうのがキーワードになるのかなと思う。その文化というのが、テレビゲームだったり、悶々とした爆発だったり、ストレスだったりする。
 小林よしのりは、「雑誌サピオ」でこの間の少年事件に対して、「豊かさを主張する個人主義者たちが、世の中をこうしたんだ」ということを言っていた。「自由な個」のせいなんだ、と。それに対して奴は「公」を対置するわけだ。森とか、小沢とか、石原なんかの主張と全く同じだった。少年事件を憂うる人々は、道徳教育の重視や、集団行動のルールを教えるだとかが、魅力的なキーワードに映るんじゃないかな。我々はこういうのをきちっと論破していかないと、「子供問題」で世の中がむこう側にいってしまう危険性がある。

司会 国家の範疇外のやつについては、徹底して規制し、統制し、弾圧する。それはワンパターンなわけだが、ただ現実問題として俺らの世代でも学校に行きたくないやつ、ふらふらしていたけど、かなりの数で不登校があると思うんですよ。この間ずっと続いている。この層は、自分を防衛するためには「登校拒否」という形で自分の道を進むというような現われ方で、一つの特徴を持つ。だから我々は不登校の人々も含めて何を語るのか。ほんとうに彼ら彼女らの気持をわかっているのかな。ゲームに関しては、みんなやっているし、ならばそうなるのかと。

  自己を投影するもの

B ゲーマーとして言わせてもらうと(笑)。やっぱり影響があるだろう。ゲームが原因だということに関しては、あまりにも短絡的で抵抗あるけれどね。ゲームに限らず、映画にしても、文化というものが絶対に影響がある。
 ただそういうことが言われる中でゲームだとか、パソコンだとか、そういうものばかりが世の中で原因として取り上げられるというのが不思議だ。その一方で格闘技ブームというのが今あって、それこそもろにボコボコとやりあっているんだけれど、そういうのが原因として取り上げられるというのがないというのも、なんか不思議だな。

C ちょっと前にもあったよね。いじめでプロレス技をやるというのがね。

A ゲームとチャット、映画と漫画が違うのは、ゲームは完全に自分がやるわけだ。なりきれるわけだ。チャットは、自分がそのままでいいわけでしょ。漫画なんかは、同じような影響があるのかもしれないが、あまりにも自分を投影するにはちょっと違う存在だ。映画もそうだ。ゲームは自分がやっているつもりで子供なんかがやっているのだから、そこらへんはちょっと影響があるのだろうな。

C チャットで自分が投影されるかというと、ある意味では全然違うわけだ。俺も十四歳を騙ったこともあるけど(笑)。メール交換をしたら、漫画のキャラクターの名前で送ってきたやつもいた。

A 自分がそのようになろうと思うとできる。漫画とか、映画はできないね。

D 映画の登場人物に投影するのは、同列だと思うけどね。ゲームでも、映画でもね。

B 投影できないような映画には、あまりのめりこまないというのがあるのかな。

D ゲームというのも、ある意味では映画と同列。ゲームをやりこんでもそんなに投影しない。

C 問題は「学習」なんだよ。暴力や差別をどこで「学習」しているのかということだ。映画もそうだし、ゲームもそうだし、親や教師の言動もそうだし。そういうものの反映と疎外の結果として暴力が噴出しているのではないか。映像、チャット、ネット、ゲームの影響を否定することはできないと思いますよ。

B 文化の影響を受けるという意味もありますが、どんなものが流行るのかというのは、逆に社会の反映だ。

C それに対抗する我々の「反差別・平和主義」が力として弱いのではないか。沖縄に修学旅行で百万人単位で行っているようですけど、心に残っていないだろうと思います。沖縄に行ったからといって平和主義に組織されるわけではない。義務的に基地だ、語り部の話を聞いても「うざってーな」という感じだろう。

D 平和とか、差別とかを学校教育の中で学習したところで、内容も通りいっぺんで。字づら的に教師とかが、やっているだけで、経験の中で反映されていないわけだから、結局は無意味だ。教えられた反差別とか、平和主義というのは、字づらで、それ自体がバーチャルだ。それ自体が仮想で、実感として持てない。結局、それを伝えていくのは文化だ。小林的な右翼的なものが文化として作り上げて再生産されている。

C 左の側から評価できる漫画もあることはあるけどね。

D そういったものを左翼の側が正当に評価している。

 「エリート」としての左翼

B 週刊金曜日に反天皇制を主張した漫画があったけどな。だけど小林よしのりと比べると負けているなと感じた。

A 小林よしのりは、差別性を漫画の中で強調するわけじゃないですか。いやな人間をめちゃくちゃに描いて、いい人間をカッコ良く描いて、そういうのは使いわけている。

C アメリカで銃を乱射した少年もそうだけど、少年犯罪を犯す人たちは、左より右に魅かれるのはなぜか。そこだと思うんだよな。

G 「よりどころ」を求めたいからだよ。左翼というのは、自由の人間の連帯だから、よりどころにはならないんだよ。

C 少年犯罪に対して少年法改正とか、あるいは「日の丸・君が代」などで国家への忠誠を求めて、鎮圧していこうとしている。だけど犯罪を犯しかねない少年たちが国家主義が好きだとか、これこそファシズムの芽だと思うけどね。

G 不登校というのは、「逃げて」いるわけでしょ。「逃げる」んじゃなくて闘ったっていいんじゃないの、と言いたいね。とりあえず今は「逃げる」しかないのかな。

司会 不登校の人を目の前にして、「君は逃げているんだ」と言えるのかな。

C 親や教師が「お前は逃げるのか」と言うわけだから、自殺する子が出てくるわけよ。俺もそうだったけれど。「逃げるのか、逃げるのか」と言われましたよ。あれほどの苦痛はないよ。

G 最近、フリースクールが増えてきているけど、そういうものを左翼の側が作っていくのは考えられるのではないか。

C だけど左翼って「高学歴」の世界じゃない。

司会 そうそう。エリート指向、バリバリの青年の健常者至上主義、これが青年運動の基準だったのではないかと、かつて女性たちから批判されてきた。青年運動と言った時に、そこに女性がいるのかと批判された。不登校の人々も含めて青年運動のイメージを持とうとしているのか。「学校に行かないとだめだよ」と言って切り捨ててしまうところがあるのではないか。

G 俺はそういうことを言ったのではなくて、もちろんあんな学校行ったって価値がないと思うよ。思うけど、ただ単に「逃げた」だけでは意味ないでしょ。例えば、とりあえずフリースクールに身をおいて自分を取り戻しつつ、ポジティブな形で社会に出ていく手助けができればいいかなと思う。

A そんなのはべつに左翼がやらなくても誰でもやっているわけで、文部省のほうだって、むしろフリースクールでも単位を出すかと言っているわけじゃないですか。もう自分らで学校を管理できないと言っているに等しい。義務教育の場合は実際に通わなくても、形式的に卒業させちゃうんですよ。退学者をだすというは校長の恥なんで。卒業させちゃうんですね。

  国家の求める人間

C 資本とか、国家にとっては、学校を辞める人間がいようが、脱落する人間が多ければ多いほどいいんであってさ。一部エリートが作られれば、別にかまわないんだというのが国家と資本だと思うんですよ。社会問題化したから、どれだけそれをフォローしていこうかなという程度じゃないか。

A そうかな。中卒・高卒・大卒と、それぞれいくコースは違うけれど、国家の側も国家が要求する人間になってほしいと思っているのではないか。

C 振り落とさないと下層労働者ができないじゃないか。

A 試験とかで振り落とすというのはあるけど、学校が管理できないような形で生徒がこなくなるのは困ると思うんですよね。ランクづけするのが国家の論理だと思う。

C 部落差別の結果、いじめによって学校に行けなかったり、家が貧しかったりさ、そういうのは昔の振り落としだった。今はそういうのも残っているけど、違う形で制度だけじゃない振り落としというのがある。学校は巧妙に生徒のコミュニケーション能力も「能力」として、振り分けているよ。

F 今回の報道を見るとね、こういう事件を起した人間をマスコミが追っかけていったら、不登校だったとかさ。不登校の人の名誉のために言うと、あたかも不登校が、こういう事件を起すような書き方は問題だ。

司会 それと関連して、「精神病院の通院歴があり」という報道の仕方も問題だ。

F そうそう。例えば、K区にあるTというセンターなどは、何年もこつこつと自主運営をやっているところがある。不登校#ニ罪者ではない。

司会 ゲームとネットの問題だけど、やはり一人と画面の関係なんだ。その時間が膨大であり、そこで生きている。だから資本からすれば横の団結を解体し、完璧にアトム化しきった。今度は、そこに成功したのだけれども、ばらけちゃってどうやって統合しようかということで、危機意識を持って上から「日の丸・君が代」とか、森首相みたいな発想で対応してきている。それではじき飛ばして、だめなら少年法を改正して死刑まで含めてやるということだ。そいう形での上からのより戻しがあるんだと思うね。

F そうかね。アトム化したのは、偶然の結果だと思うが。

司会 横のコミュニケーションをなくして、地域性がなくなるわけでしょ。

F そこまでねらったかわからないが。ゲーム主犯論を言う時は、引きこもりとセットなわけだ。ゲームやる一方で、健康的に山に登っている人だっている。やはりゲームと引きこもりがセットで言われている。

C 引きこもりって、でも一つのセットになっちゃうじゃないですか。だってさ、寝ている時間より、パソコンをやっている時間のほうが長いやつはたくさんいる。

E 寝床にもってきてやっているぐらいだよ。

C そんなんじゃ、眠れないぜ。パソコンをやってわかったけど、頭がチカチカして眠れないよ。疲れがとれない。それを一年、二年も続けたら、犯罪に直結すると言わないけど、絶対にコミュニケーション機能が壊れるなと思う。

  バーチャルな暴力の影響

E さきほどバーチャルな世界と現実の問題について出たけど、ポルノの問題に焦点をあてると、例えば、宮台真司なんかは、「女をレイプすることでしか自分の願望を充足できないというセクシュアリティーを持っているやつは現にいますよね」と言っている。それに、彼らがバーチャルな世界でガス抜きできれば、共生の原則に反しないわけですね、と言っている。
 要するにバーチャルな世界を通じて、そしてレイプビデオに出演することで対女性とのバーチャルな関係を結ぶことによって共生できるんだと言っている。とんでもない発言なんだけれど、バーチャルな世界と現実というのは、実は痛み、暴力の問題というのが、もっともっと問われていかなければいけない。実際の撮影現場で起きている暴力であり、それを見る側にとってバーチャルな世界で安全な場所で見られるけど、やっぱりそこでは危険が存在している。アニメなんかも同じだ。

A フランスなんかでは、アニメの「ドラゴンボール」を放映する際、戦闘シーン、殴るシーンはカットする運動があった。やっぱり日本のアニメは暴力シーンがすごく多い。そういうのを規制する外国も存在している。資本がそれをやらざるをえないというのは、一定実証されているではないか。バーチャルであろうが、なかろうがやってみたいとか、学ぶものだ。プロレスごっこのいじめはあったしね。やっているほうはいじめている意識はないが、やられているのはすごくいじめられていると感じている。

D ヨーロッパの場合、ドラゴンボールなどは、子供が観るものだと限定しているが、日本の場合、子供文化と大人文化がカオス的だから、境がないから、子供も観て、大人も観て、これはバーチャルなんだと学習させるという文化の体系があると思う。

B かならずしも大人と子供が一緒に観るというのはないのではないか。例えば、おたく文化は、そこらへんの大人と子供っていう境界があいまいになっているというのが特徴だと思うんだけど。

A 暴力とか、性差別をマスコミ、メディアで流しているのは、それがバーチャルなんだと子供に教えるためにやっているわけではない。そんなことに資本は金を使わない。フランスの場合は、メディアによって相当子供が影響を受けるということを注意しているのではないか。日本は、そういうところがすごく弱いでしょ。児童虐待についてもそうだし、あらゆる差別・暴力についての危機意識が弱いと思う。

E バーチャルということで言ってしまうことは、ちょっと注意を喚起しなければいけないと思う。「それは行為である」ということで成り立っているというか、やっぱり幻想の学習であり、行為なんだと。行為に結びつく。何かのビデオであれば、そこの現場にいるその人たちの行為である。それを学習したりしているわけだが。そういうなかで何がいいのか、悪いのか、一つ一つ見い出していく必要がある。

C 俺がもし将来、家庭を持ったならテレビなんか起きたくないし、絶対にパソコンやゲームを置きたくないな。

B 逆に子供がグレちゃうんじゃないの。

C 今はテレビがない家のほうが「豊かさの象徴」とか言われるよね。

  打ち上げ花火とカリスマ

司会 中核派の機関紙「前進」で少年少女事件についてコメントを出していた。社共にかわる労働者党建設を全社会的に告げ知らせなければならない。杉並選挙決戦に勝利し、沖縄サミット決戦を全国、全世界、そして少年たちの心にまで届く大闘争として爆発させよう」と言っていたけど、どう思いますか。

C 中核派のイメージだと昔の羽田闘争とか、あるいは八五年十・二〇とか、ああいうのをドカーンとやれば少年をこっちに引き付けられると思っているんじゃないの。なんか花火を上げればこっちくると、そんなに単純じゃないな。去年、広島の暴走族の暴動があったが、機動隊が出てきて群衆が対峙して、新左翼が好きそうなシュチュエーションなんだけれど、あの少年たちは絶対に我々なんかより右に近い存在だ。実際に後ろにやくざがいた。
 むしろ今の少年暴力は、右に組織される危険を感じる。逆に少年たちが右翼になって、左翼を拉致監禁するという時代が来るのではないかと感じている。

B そうならないように我々が組織するんだと中核派は言っているわけだ。中核派のレベルと「かけはし」の「闘いによって希望を差し示すべき教職員組合をはじめとする労働運動が大きく後退している。こうして未来の希望を失われた世代に腐敗しきったやり場のない怒りが無方向で爆発するようになったのは当り前なのだ」というのは、同じレベルじゃないのか。

A 一発大きな花火を上げれば「少年たちはかならず闘いに立ち上がる」と中核派は言っているが、本当にそうなのかどうか、それはわからない。

G 今、カリスマを待望する雰囲気があるじゃない。カルトの教組だってそうでしょ。ああいうのがなんで流行るのかというと、カリスマが欲しいからでしょ。カリスマ待望の精神というのは、ファシズムとつながっている。そのへんは注意しなければいけないと思うけど。

B 宗教が伸びているというのは、左翼なんかでも「偉大な指導者」みたいな感じで拝んでるみたいなところとか、みんなで山登りやっているようなところがあるじゃない。そういうのってあるよね。

C さっきのパソコンの密室性の話じゃないけど、そこからどう青年を連れ出すか。ひとつには「やりがい」があるよね。そういう意味じゃ、われわれのデモンストレーションだとか、マイノリティピープルへの支援活動なり、そういう現場の楽しさが実感できれば、組織する可能性があるのかなと思うけど。「やりがい」というのは、行動のラジカル性じゃん。だけど、その「やりがい」がカルトのほうがうまかったりさ、組織、教組様に忠誠をつくす。あるいは共産党、創価学会みたいな仲間作り、こういう連中のほうがうまいね。
 そういう中で自立した個人の連帯を、今の若者に対して組織することができるのか。あと、いまは正義感とか、正論を言うやつが嫌われる風潮もある。どっかの党派じゃないけど、「正義感」とか、そういうものが復権しないと左翼の社会的登場は難しい。敵の弱肉強食思想をどう解体するのかという視点をどのように持つのか。一発逆転はないと思いますよね。

G ブルジョア民主主義というのは、特別な人間を作らないための手続きだと思う。例えば、最近のロックやポップスの歌詞は、「誰かがこの世の中を救ってくれるんだ」というのが多い。

B ガンバレソングとかもあるね。

A 誰かがやってくれるというよりも、自分を慰めるという感じじゃないの。

C そういう歌を求める感性という意味ね。

B 一生懸命やれば報われるというやつかね。流れとしてはずっとあるんだな。

司会 時代状況と世界観と問題を設定すれば、六〇〜七〇年代ベトナム反戦があり、全共闘運動があり、そこで連合赤軍事件があり、内ゲバがあり、爆弾がありね。テロリズムの問題と性暴力の問題の存在。つまり、戦後民主主義の中から出てきた新左翼運動の限界性が、やっぱり今日の状況を作り出してしまった。中核派の場合は、ソ連スターリン主義の歴史的崩壊と社共の総転向という中から、今こそ党の復権、日本共産主義思想の復権と言っているんだけれども。
 我々も今の時代状況に代わるようなオルタナテイブを提起しなければだめだという形で、そういうふうに言う傾向がある。
 時代的にみれば、ヨーロッパの反失業運動とか、既成労働組合から離れたところでの新たな労働者運動、シアトル・ワシントンの闘いなどみると、一定程度の青年層の急進化、グローバリゼーションと多国籍企業に対するアンチの発想、抗議していく傾向が始まっていると思う。日本の場合、それがストレートに出てきていない。ブルジョアジーも評価しているようにNGO、ボランティアをすれば学校の単位をあげるという形で制度化している。大国主義的意識を持たせながら組み込もうとしている。

  民主主義の訓練と反権力のコミュニティー

A 「かけはし」一六三五号でアギトンが言っているが、アメリカとフランスの状況は違いますね。青年の登場については。アメリカの状況については、なんとなくわかるんですよね。中流階級以上の大学生が超搾取に反対する運動の中で黒人が少ないと書いてあった。おそらくフランスの場合は、失業中の青年が闘っているのではないか。そして、失業しているのは、そもそも自分のせいじゃないよという意識がある。日本の場合は、「責任は政府にあるんだ」と投げ返して、やりかえせる運動が作りえていない。責任を問うような運動がない。

司会 抗議や怒りをどのように表現していくのか。集団的な作業で意志表示していくか、それはやはり訓練なんだろうなと思う。さきほど出たパソコンとゲームに引きこもっている連中をどのように引っぱり出すのかについて考えれば、やはり時代が動かないと動かないだろうなというのが昔から言われてきた。今の過渡期状況の中でどう考えていくか。先ほどの世界の若者たちとどのように合流できるか。

A 日本の学生は、NGOは遅ればせながらやっているけれど、あまりラジカルなのはない。今回のサミットにしてもほとんどないでしょ。おとなしく会議をやっちゃっているじゃないですか。NGOって、もっとラジカルでシアトルに行った人がいっぱいいて、学んで帰ってくるのかなと思ったけど、学んではいるけれど、行動的にはどうか。なんかやっちゃうと「過激派」とみられるのがイヤなのかな。

司会 運動論的に考えると、闘争拠点の存在という問題があるよね。ベトナム・三里塚がセットになって柱になって全国の反公害・住民運動が結び付いていった。そういう観点から言えば、沖縄連帯運動においても鋭く問われている。

C 最近で言えば、九六年一月の新宿段ボール村強制撤去に対する闘い。朝のニュースで報道されて、それで感動して結構、関東一円から新宿に駆けつけた若者がいましたよね。そういう可能性もあるんだろうけれど、それも一揆主義的発想でどうも好きじゃないけどね。

司会 その点については、このあいだ三里塚で加瀬勉さんも言っていた。(本号に全文掲載)
 高揚期の時は、いろんなところから石を投げに来るやつがいた、だが問題は運動の後退期、どん底の時にどれだけ頑張れるかが問われていると言っていた。運動の波がありながら、しかし旧来型の内容とスタイルではだめだと、しかし継承することは継承し、組織していく。運動を作っていくというところは同じなんじゃないかな。

C 運動のことで言えば、学生とかと付き合ってみると、民主主義に対する訓練が本当にないなと思う。議論して物事を決めて、それを責任をもって実践する。これは一般社会でも当り前のことだと思うけどね。そういう初歩的なところがわかっていない。だから運動に参加すれば、すべて自分の思いどおりにできると勘違いしているやつが多い。民主主義の訓練、学校として作っていかなければならないと思っているけどね。

D 革命運動の戦線に青年層を再び獲得するのに、具体方針は何か。それが常に問われ続けている。左折の標識を差し示し続けていくことが重要だ。

司会 「反権力コミュニティー」を現実の闘争課題を媒介にしながら作っていけるのか。アトム化された青年たちを、いかに集団的な協同作業の場に獲得できるのかが重要だと思います。この中身を自問自答しながら闘い続けていこうではありませんか。

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