「青年戦線」最新号より

2000年9月20日・No.155より

|●沖縄・ 反治安出動闘争の成果を引き継ぎ、21世紀にむけて強力な青年の隊列を
|●反サミット沖縄現地闘争に参加して
| 国境を越えた連帯を実感………………………………………………………ふじいえいご
| 歴史の真ん中を歩いた4日間………………………………………………………大仲 恵
| 沖縄は熱かった(そして暑かった)………………………………………………板橋道雄
|●座談会 少年少女たちの事件をどうみるか
|●日本の農業と三里塚 加瀬 勉さんの提起
|●自治体現場から検証する防災訓練  …………………………………………川野わたる
|●学習ノート ローザ・ルクセンブルクの組織論(2)…………………………中野新一
|●過渡期経済論・労働者国家論(1)  …………………………………………早野 一
|●アジアと日本のいまを考える(2)  …………………………………………志村七蔵
|●映評「人狼(JIN―ROH)」     ………………………………………半田しのぶ
|●連帯を求めて(30) ………………………………………………………………萩原邦彦 


学習ノート

ローザ・ルクセンブルクの組織論(2)

中野新一


「ルクセンブルクは、労働組合と党における専従役員層の出現と発展が、ドイツ社会民主党の内部で成長しつつあった保守的傾向の鍵である、という事を、レーニンやトロツキーよりも早くから理解していた(「大衆ストライキ、党、労働組合」「ローザ・ルクセンブルク選集」第二巻、現代思潮社)。
 ルクセンブルクは、単なる中産階級知識人の影響ではなく、ドイツ社会民主党に対する、党と労働組合の専従役員のwへゲモニー(主導権)xこそが、選挙運動や型通りの団体交渉以外の活動に、指導部全体が同意する事を拒否する根拠である、と結論づけた。ルクセンブルクによれば、この官僚制が、大衆的な労働者階級の制度内部でひとたび強固になると、それは、労働者の闘争を深め拡大する事よりも、党と労働組合の機構を維持する事の方を重視した」。
 しかしながら、「専従者と職員の機構なしには、大衆政党や労働組合の組織的発展は考えられない」
「レーニンとトロツキーは、野党の社会主義諸党の一時的禁止、農民とブルジョアジーの選挙権の制限、告発された反革命分子を、チェカが、如何なる政治的な監督を受けずに、逮捕し、裁判にかけ、刑を執行する権限をもつ事、などがプロレタリア支配の、必然的で望ましい特徴であると論じた」「トロツキーは、wテロリズムと共産主義x及び労働者反対者との論争において、プロレタリアートはその支配を、直接的かつ民主的に行使する事の出来ないw動揺する大衆xである、と宣言した。同じ時期レーニンは、労働者大衆を、資本によって堕落させられた部分(「労働貴族」)を伴う、どうしようもなく分裂した集団、として繰り返し描いた。一九二〇年から二一年にかけてレーニンもトロツキーも、党が(プロレタリアートの願望に背いてさえ)、社会主義を建設しうる唯一の勢力である、と宣言した」    
(「エルネスト・マンデル」 アシュカル編 西島 栄・他訳 つげ書房新社)

 二

 ローザの著作「ロシア社会民主党の組織問題」は、彼女にとっての「組織」とは何かを知る上で重要といえる。この著作の要点は、次の三点に集約出来る。

一・彼女の党組織論を、初めて体系的に明示した。
二・ロシア社会民主党の歴史的成立過程を分析して、ブランキズム(一揆主義)の組織原理との明確な相違と、中央集権化への不可避的傾向を明示した。                      (「選集」第一巻 二五一頁)
三・組織の中央集権化が、必然的に内包する官僚化。それによる大衆からの離反。

 彼女は、帝政ロシアという絶対主義国家における社会民主党の任務について、次の様に書いている。 
「意識的な関与によって歴史過程の一時期を補って、プロレタリアートを、絶対主義体制の基礎を成した政治的原子化の状態から直接に、(目的意識的に闘う階級としての)組織の最高形態へと導く」と。
 当時のロシア社会民主党においては、組織が、地域・地方に分離あるいは分散していた。そうした情勢下における、全ロシア大衆の統一的な政治行動の為のアジテーションとは何か?

「大規模な組織創りにおける新しい局面のスローガンは、当然、中央集権となった」 (「選集」第一巻二四九〜二五頁)
 
 彼女とて、ロシアの党が組織の統一を追求した必然性には、理解を示していたのである。
 しかしローザはまた、次の様にも主張している。すなわち、「中央集権主義というスローガンは、社会民主主義の組識形態の歴史的な内容、その特性を言い尽くすものではない」と。
 彼女はレーニンの「一歩前進、二歩後退」に散見される、「ロシアの党の超中央集権主義的な方向」に、深い危惧を感じていた様である。すなわち、「中央委員会が党活動に於ける実際の活動の核であり、その他の組織は、中央委員会の道具にすぎない様に見える」と。
 レーニンは革命的社会民主主義(革命的共産主義)者について、どのように規定していたのか?

「階級意識を持ったプロレタリアートの組織と、分ち難く結ばれたジャコバン(プティ・ブルジョア急進)主義者」

 この規定によって、ローザは理解していたのである。レーニンが、「極少数者の陰謀とは全く異なるプロレタリアートの組織と階級意識に、社会民主主義(共産主義)とブランキズムとの間に、根本的な相違のモメント(契機)を見てい」た、という事を。
 しかしながら同時にここで「ローザ的精神」が、レーニンの先の規定がブランキズムの「影」を有している、と判断していたであろう事は、想像に難くない。
 ローザにおいて社会民主主義運動とは? そしてその組織とは? 

 それは「あらゆるモメント、あらゆる過程で、大衆の組織とその自立的直接行動を前堤とする、階級社会史上初の運動」なのであり、「その点に於いて、それ以前の社会主義運動、例えば、ジャコバン・ブランキスト型とは全く異なる組織形態を創出する」(「選集」第一巻 二五二頁)

 こうした主張における、彼女のレーニン主義組織論批判の方向性は、明白である。

「レーニンは、組織概念の完全な価値転換が、中央集権主義という概念に、全く新しい内容が、組織と闘争の相互関係において、全く新しい関係が生じた事を、忘れている」(「選集」第一巻 二五二頁)

 彼女が、ブランキズム的な「影」にさえ神経質になっていたのには、それなりの理由があった。
 「第一次プロレタリアート党の追憶のために」(ポーランド王国地域・リトアニア社会民主党機関誌「社会民主主義展望」・一九〇三年)において、彼女は主張している。初期のポーランド社会主義運動は、そのブランキズムの為に、大いなる犠牲を強いられた。その克服には多大な精力を要した、と。
 「中央集権主義という概念に、全く新しい内容が」生じた、とは具体的には何を意味していたのだろうか。
 ローザは「社会民主主義的中央集権」を、次の様に説明している。

一・その中央権力への、党大衆の無条件の従順・機械的服従を基礎とし得るものではない。
二・既に確固とした、党幹部層に組織された、階級意識のあるプロレタリアートの中核(党大衆)と、既に階級闘争に加わり、階級的啓蒙の過程にある周辺的層との間に、絶対的な障壁を設ける事は出来ない。(「選集」第一巻 二五四頁)

                   
 彼女はその様な中央集権主義を、次の様な集約的な表現で説明している。

「労働者階級の個別的なグループや個々人に対して、労働者階級の、啓蒙された闘う前衛の意思を、強いて集約する以外のものではなく、プロレタリアートの指導的層の、言わば「自己集権主義」、党組織内部の多数者支配である」
(「選集」第一巻 二五四頁)

 当時ローザは「大衆と指導者の関係のラディカルな転換」を目指していた。そしてそれは、「集権」と「分権」との間の弁証法、としての組織論を模索する過程としてあった。やがてその問題意識は、一九一〇年に「ドイツ労働者階級の政治指導者」「大衆と指導者再論」などの論文によって、結実する事になる(こうした活動は、社会民主党の運動の行き詰まりと、歩を同じくしている)。
 こうした新しい組織論を志向していたローザの眼に、強固な集権的党形成を目指していたレーニンの組織論は、どの様に映っていたのだろうか。

「レーニンが言っている様に、もし党指導部に、否定的な性格の絶対的権限を与えるとすれば、あらゆる党指導の本質から必然的に発生する保守主義を、正に人工的に、最も危険な範囲にまでも強化する事になるだろう」「彼が推奨する超中央集権主義は、その全本質に於いて、積極的・創造的精神によってではなく、硬直した夜警の精神によって、支えられている様にみえる。その思考の方向は、党活動の「豊潤化」にではなくその「統制」に、その「展開」にではなく専らその「制限」に、運動の「結集」にではなく「締め上げ」に向けられている」(「選集」第一巻 二五九頁)

 これに対しレーニンは、次の様に反論している。

「同志ルクセンブルクは、私が或る組織体系を、何か他の組織体系に、対抗して主張している、と考えている。だが、実際にはそうではない。最初の一頁から最後の一頁まで、この著作全体を通じて私が擁護しているのは、考えられる限り、どの党組織のどの体系にも適用出来る、初歩的諸命題なのである」
(「一歩前進、二歩後退。エヌ・レーニンのローザ・ルクセンブルクへの回答」 「全集」第七巻 五〇九頁)

 しかし、この主張は奇妙である。
レーニンはこの時、実際には「或る組織体系」を、「他の組織体系に対抗して主張」していたのである。
 人は、想起するべきであろう。一九〇三年のロシア社会民主労働党第二回大会における、ボルシェビキ(多数派)とメンシェビキ(少数派)の分裂が、正に組織論をめぐって発生した、という事実を。
 また彼が、次の様に主張している事からしても、明白である。

「今では我々は皆、経済主義者が、棒を一方に曲げた事を知っている。棒をまっすぐに伸ばす為には、棒を他の側に曲げ返す必要があった」(「党綱領に関する演説」 ロシア社会民主労働党第二回大会 一九〇三年七月二十二日 「全集」第六巻 五〇六頁)「経済主義者によって曲げられた棒は、「なにをなすべきか?」で、曲げ返されている」(「論集「十二年間」への序文」 「全集」第十三巻 九七頁)

 それまでのロシア社会民主労働党の組織状況は、如何なるものだったのか?

「党全体が、地方党組織の定形の無い混成体に転化し、これらの地方委員会を統合していた唯一の結び付きは、思想的・純精神的な結び付きだった」(「一歩前進、二歩後退。ローザ・ルクセンブルクへの回答」 「全集」第七巻 五一四頁)

 こうした状況を変える為にレーニンは、「棒を曲げ返して」、極端なまでの中央集権的党形成を目指したのである。

「民主主義に対する官僚主義、それが正に、日和見主義者達の組織原則に対する、革命的社会民主主義の組織原則である」(「一歩前進、二歩後退」 「全集」第七巻  四二六頁)

 こうした党形成の為に例えば、所謂有名な「党規約第一条問題」に、固執したのだ。

「党のどの組織にも所属していないが、(何らかの形で党を援助している)者が、「党員」と自称する事を容認しない」(一九〇三年 第二回大会に於ける、レーニンの修正動議)

 一方この時ローザの関心は、何処に向けられていたのか? 
それは、労働者大衆の創造性を如何に解放し、主体性を確立するか、という課題にであった。

「党官僚主義の強化につれて、一切の社会主義的観念の根本原理が、決定的な被害を不可避的にこうむり、機構が主要問題となる」

 ロベルト・ミヘルスは「現代民主主義における政党の社会学」(一九二五年 森博・樋口訳 木鐸社 一六三頁)において、以上の様に展開した。同じ様な堕落を、ローザはドイツ社会民主党の「発展」の中に、みていたのである。
 現代、資本主義体制の政治的危機は、(客観的には)深化しているといって良い状況にある(日本においても強くいえることである)。
 この様な状況下において、プロレタリアートの大多数が、改良主義的な政治指導部の下に留まり続けている。依然として、資本主義的な生活習慣とブルジョア的な意識に、深く囚われの身となっているのである。
 ハンガリーの哲学者ジョルジュ・ルカーチは、この様な精神状況を、次の様に表現している。
 
「プロレタリアートの、恐るべき内面的・イデオロギー的危機」
(一九二三年 「歴史と階級意識」 白水社刊 四九六、五〇六頁)

 ローザも今世紀初頭、同じ様な問題意識を持っていた、と考えられる。そしてその克服を、強く熱望していたのである。
それが彼女をして、(レーニンとは異なる)独自の組織論を展開させるに至ったのであろう。
 ローザの組織論は、レーニン主義者によって、批判的に扱われる事が多かった(彼らは「自然発生性」という表現を多用した)。
これに対し思想家のポール・フレーリヒは、次の様に書いている

「彼女は、組織が、手段から目的に転化していた時代に、ドイツ労働運動の為に書いたのだ」「ローザにとって決定的な要因は大衆であったのに対し、レーニンにとって、それは党であった」
(一九八七年 「ローザ・ルクセンブルク、その思想と生涯」一〇九頁 伊藤成彦・訳 御茶の水書房)
                                (以下次号)

もどる

Back

「青年戦線」を定期購読しましょう。お申し込みは新時代社