「青年戦線」最新号より

2000年9月20日・No.155より

|●沖縄・ 反治安出動闘争の成果を引き継ぎ、21世紀にむけて強力な青年の隊列を
|●反サミット沖縄現地闘争に参加して
| 国境を越えた連帯を実感………………………………………………………ふじいえいご
| 歴史の真ん中を歩いた4日間………………………………………………………大仲 恵
| 沖縄は熱かった(そして暑かった)………………………………………………板橋道雄
|●座談会 少年少女たちの事件をどうみるか
|●日本の農業と三里塚 加瀬 勉さんの提起
|●自治体現場から検証する防災訓練  …………………………………………川野わたる
|●学習ノート ローザ・ルクセンブルクの組織論(2)…………………………中野新一
|●過渡期経済論・労働者国家論(1)  …………………………………………早野 一
|●アジアと日本のいまを考える(2)  …………………………………………志村七蔵
|●映評「人狼(JIN―ROH)」     ………………………………………半田しのぶ
|●連帯を求めて(30) ………………………………………………………………萩原邦彦 


アジアと日本のいまを考える(2)

志村七蔵


 前回は東アジアと日本の関係を考えるためにはアジアの「新たな分業構造」という視点から見ることが重要なのではないかと提起し、その変遷について簡単に振り返ってみた。今号では、まずはじめに前回で述べたことの補足的なところから始めることにしたい。

 なぜ分業構造に視点を据えるのか?

 まずは一つの実例として、ある電子部品メーカーを取り上げてみよう。
 この会社の従業員規模は約三千人である。が、これはあくまでも日本国内での雇用者数で、この会社が海外で雇用する数は関連企業を含めるとアジアを中心に約十倍の三万人余りにもなる。しかし、この数字だけなら別段驚くほどのものではないだろう。電機関係の企業は、早いところでは六〇年代から海外に進出していることはよく知られていることだから。ここで注目したいのはその国内企業本体での従業員の雇用形態や職種の構成である。
 先に国内の雇用者数を三千人と述べたが、実はそのほとんどは経理・総務といったいわゆるスタッフ部門と設計・開発や営業といった部門の労働者であり、製造部門は国内や海外の関連企業にアウトソーシング(外部委託)しているため自社にほとんど持っていないのである。
 もう一つ例をあげておこう。筆者の知る別の企業の工場では、従業員約千人のうちおよそ半分が設計開発、四分の一が営業、そして残りの四分の一が製造部門の労働者という構成になっているのだが、驚くことにその製造部門の労働者はほとんどがパートの女性労働者であった。

 ホワイトカラーの増大

 いま、電機・機械産業の中堅から大手の企業は、これらの例のように製造部門を自社に持たないか、持っていたとしてもかなりウェイトが低い企業が増えている。電機連合の組合員は三分の二がホワイトカラーといわれているし、NECに至っては従業員のうちおよそ九五%がそうだといわれている。このように企業における職種構成や就業構造の変化が新たな分業の進展にともなって進行しており、いまや製造業においてさえ就業人口に占めるホワイトカラーの比率を著しく高めているのである。
 ホワイトカラーはすでに全産業で見ても就業人口の半数以上を超えているといわれており、この構造的変化がいまの労働者の働き方、意識などに反映している。その点については後ほど言及してみたいと思うが、いずれにしても筆者の言うところの新たな分業構造の再編は、第一にこのような労働者の階層構成の劇的な変化をもたらしているのである。
因みに韓国では八〇年代半ばころ、増大するホワイトカラーなどの新中間層の捉え方をめぐって論争になったことがある。それは当時同国で大論争となっていた「階級構造論争」、「社会構成体論争」の一部として議論されたものであり、新しい社会の展望、その主体の設定、および闘争勢力の配置などを考えていくうえで、新中間層をどう評価するのかというものであった。(「韓国社会論争」社会評論社刊)翻って考えるに日本では――筆者の不勉強のせいで知らないのかもしれないが――このことはあまり問題にされてこなかったといえるのではないだろうか。

 ホワイトカラーのメンタリティ?

 それでは、このホワイトカラーの労働者の増大とはどのような意味を持っているのか考えてみよう。が、この問題について本格的に論じるのは筆者の能力に余るので、ここではいま流行の「能力主義賃金制度」の動向を手掛かりにして、このホワイトカラーのメンタリティの一端を見ることにしたい。
 いま民間企業では能力主義的な賃金制度や人事制度を導入する企業が増えている。この春にもNECと東芝で導入されることが新聞で報道されたので、それを見た読者も多いことと思う。
 ところで周知のとおり人事考課制度や査定、職能給などのいわゆる能力主義的な賃金制度は、およそどこの企業でも比重は別としてすでに導入されているはずである。実際、それらが広まったのはかなり早く六〇年代といわれている。
 それではこれまでに導入され定着した能力主義的賃金制度と、この間導入されているものとはどこが違うのか。この点に関して分かり易い実例を示しておこう。
 社会生産性本部が九五年に従業員規模五〇〇人以上の企業二百四十七社の人事担当者に実施したアンケートによれば、四六・六%がこれまでの賃金制度は「制度は能力主義的だが、運用は年功的」と答えている。このことからも分かるように「これまで日本的経営は、どちらかといえば従業員の顕在能力(発揮された能力)、つまり実績を重視する実力主義よりも、その潜在能力(身に宿している能力)、つまり狭義の能力を重視する能力主義を処遇の基準としてきた」(「能力主義と企業社会」 熊沢誠著 岩波新書)のである。
 これまでの制度は能力主義と称しながら、実際は年功的に運用されていたのである。それはどういうことかというと、いままでは職能給や査定があったとしても、勤続年数が上がれば昇給があった。もちろん、定年延長にともなって一定の年齢から昇給が頭打ちのなるといった制度もかなりの企業でみられるが、しかしそれでもこれまではある一定の年齢までは勤続が増えれば多少なりとも昇給があるというのが一般的であった。これに対していま急速に広まっている能力主義的な賃金制度は――それを区別するために、ここから「成果主義」と呼ぶことにする――年功的な要素を完全に排除することを特徴としており、仕事で成果を出さない限り賃金は上がらないばかりか、逆に下がる可能性もあるというのが、これまでと決定的に違う点である。

 能力主義の背景

 では、なぜこのような制度が急速に広まっているのだろうか。
 よくいわれている理由は、「グローバリゼーションの時代には、企業が抱える人材の最大限の活用を図らないと外国企業との競争に負けてしまう。それゆえに能力の活用を図るために賃金制度を含めた処遇の見直しが必要」、というわけである。もちろん、それには「総額人件費の抑制」というのがまず前提にあって、その限られた人件費の中で人材の活用を図るというのが本当の狙いなのであるが。
 これに対してほとんどの労働組合は、成果主義の賃金体系や人事制度の導入について容認する傾向にある。われわれからするとこのような態度はナンセンスとなるが、ところが事態はことほど左様に単純な問題では済まない。ここで最初に挙げたホワイトカラーがすでに就業人口の半数以上を占めるという問題と絡んでくるからである。
 九六年に総理府が行ったアンケートでは、それに答えた労働者のうち六三%が「年功序列から個人の能力や業績を重視する賃金制度に切りかえる動き」を好ましいと答えている。因みに二〇代と三〇代ではこの数字は実に七〇%以上にもはね上がる。九八年の連合総研の調べでも「非常に賛成」が一〇・七%、「どちらかといえば賛成」が三七・〇%で、反対と答えたのは「絶対反対」と「どちらかといえば反対」と合わせても一六%弱であった。この調査でも若年層ほど高い賛成率を示しており、労働者の成果主義を容認する姿勢がはっきりと――とりわけ若年層で――見てとれるのである。
 確かに筆者の周りでも若年層の年功賃金に対する評判はすこぶる悪い。もちろん、これには理由がある。それを述べる前にそもそも「年功賃金」とはどういったものなのか確認しておこう。
 年功賃金は労働者の年齢の上昇に応じて必要となる生活費に合わせて賃金カーブを設計するものであり、いうまでもなく生活の保障を目的としている。しかし、年功賃金については別の説明もされる。それは大雑把に言えば、新しく企業に採用されて入った新人労働者は、最初は簡単な仕事から始めて次第に企業内で仕事をしながら技能、技術、経験を積んでより難しい仕事についていく――この熟練の蓄積に合わせて賃金カーブを設計したものが年功賃金というわけである。年功賃金についてはこのほかにもさまざまな説があるのだが、基本的には以上の2つが年功賃金の存立の根拠といえる。(「雇用不安」野村正實著及び熊沢前掲書、いずれも岩波新書)
 この間の急速な成果主義の拡大は、まずこの年功賃金の根拠となった「生活保障」と「熟練の蓄積」という二つの要素が崩れていったことに起因するのである。

 生産工程の変容

 このことを理解するためには、日本の企業における生産と技能・技術の継承の特徴を見ておかなければならない。
 日本企業の技術的優位性の一つは、「使い勝手のよい機械設備と、その設計された仕組みを不断に改良、改善するメカニズムをビルトインしたところにあり、その意味で日本の技術システムは、その改良も応用も、その主体としての技術者、作業者の役割を中心に現場主義的に組み立てられている。」それゆえ日本の企業においては、モノづくりの技術・技能はもっぱらOJT(仕事をしながらの教育・訓練)や社内研修、企業内学校などの企業内でのシステムを通じて継承・習得されることが特徴とされている。このシステムが技術の柔軟性や応用性、緻密性を生み、それが高品質の製品を生みだすことを可能にしたのである。これによって七〇〜八〇年代には家電や自動車などの日本製品が世界市場を圧倒したのだが、それはともかく、それゆえ年功的な賃金制度を熟練の蓄積に応じたものと考えるならば、それはなによりもこの日本企業の技術や技能の獲得、継承のあり方にマッチしていたのである。 
 ところが、ロボット元年といわれた八〇年を境に日本の生産工程は大きく変わっていった。生産工程にMC旋盤などのマイクロエレクトロニクス技術が導入され(ME革命といわれた)、それは生産性を急速に高めたものの、他方では日本の製造業を支えた熟練技術や技能を失わせていった。例えば自動車メーカーでは、五台〜六台の機械を単に操作できるなれば、その労働者を熟練工と呼ぶようになるなど、熟練の本来の意味が変わってしまったのである。そして、これに続いて前回述べたように八〇年代半ばには円高によって製造部門そのものがそっくり海外へ流出していった。かくして年功賃金を支えた一つのバックボーンが崩れたのである。
 加えて、かつては経営者といえども「賃金は生活保障」という認識を小なりとも共有していたが、しかしこの間日経連が繰り返し「日本の労働者の賃金は世界で一番高い」と主張しているように、円高のため日本の労働者の賃金はドルに換算すると世界のトップクラスになってしまった。それゆえ日本の経営者たちは高コスト構造の是正、すなわち総額人件費を抑制する方向に明確にシフトしたのである。この点でも年功賃金の存立の根拠が崩れていった訳だが、しかしなによりも問題なのは、このような生産工程と産業構造の変容が労働者の働き方、働く条件を大きく変え、そしていまの労働者の意識に浸透しているということであろう。先に筆者の周りでは年功賃金はすごぶる評判が悪いと書いたが、それはまさに「どうして仕事のできない年配の人間より俺の賃金が安いのか」という素朴な疑問から、成果主義を期待する風潮を生み出しているのである。

 成果主義の破壊的な作用

 ところで蛇足ながらこのような成果主義が広まっていくとどうなるのか?
 今年の春闘もまた賃上げ率では史上最低の記録を更新するなど、労働側にとって厳しい結果となった。そして春闘が一段落したところで、またもや経営者団体と労働側の双方から「春闘の見直し論」が出てきている。今年は経済がやや上向きになってきたとはいえ、昨年以上に企業の業績にばらつきが出ているので、「横並び」は無意味との見方がより一層強まっているからである。すでに電機連合などの有力産別から春闘の改革論が出ているように、おそらくいまのような形での春闘は今後数年も続かないだろう。 
 しかし、実は春闘の本当の危機はまったく別の方面から生じているのである。先に述べた成果主義的賃金制度を容認した組合においては、賃上げ交渉そのものが無意味となるし、実際にせいぜい物価が上昇したときや世間相場を考慮した賃金テーブルの見直しといったものに変質していく。なぜなら成果主義を容認する立場からすれば、賃金は勤続や年齢が上がったから増えるものでもないし、また生活の向上とか苦しいから上げるといったものでもなく、もっぱら能力=成果が上がったときにのみ上がるものだからである。すでに実際に賃上げ交渉をしなくなった組合は多数出てきており、そのうえ一時金においても経常利益や営業利益の数字から自動的にボーナス額が決まっていく「業績連動型」方式も急速に広まっており、労働組合にとってもっとも組合員の求心力をつくりだす賃上げと一時金の交渉そのものが無くなろうとしている。さらに、ご存知のとおりいまの労働組合は「雇用を守る」ことを最大の課題として掲げながら、実はごく少数派を除いてリストラに対して事実上まったく無抵抗でしかない。まさしく日本の労働組合は、今後ますますレゾンデートルを問われることになっていくだろう。

 労働者に対する攻撃

 資本のグローバリゼーションが進行するなかで、いま日本の企業は生き残りをかけたサバイバル競争の只中に置かれている。それゆえ、まずは国際競争力の回復を図るために、当面バブル崩壊以降の過剰設備の廃棄、不良債権処理、余剰人員の削減が急務となっている。そのため労働者に対して現在、政府\財界による次のような攻撃が打ち出されている。
 第一に、この間の一連の独占禁止法や商法の改正、産業活力再生法の制定などのリストラの促進と企業組織の再編の攻撃として。
 そして第二にアメリカのような雇用の流動化政策として。
 アメリカは八〇年代の経済不振のとき、事業に必要な人材を手っ取り早く企業の外部市場から調達するという「雇用のジャスト・イン・タイム」方式を採用した。そのほうが時間をかけて必要な人材を企業内で育成する日本流よりも、コストが安く済むからである。製造部門の海外流出とホワイトカラーの増大は、日本においてもこの方式を採ることが容易になった。この間の攻撃――九五年の日経連の「新時代の日本的経営」や労基法、派遣法、職安法などの労働法制の改悪は、まさしくこの雇用の流動化を企図したものなのである。
 第三に、個別の企業においても「総額人件費の抑制」の攻撃として、終身雇用制の見直しや成果主義的な賃金体系を中心とする人事制度の導入が進められている。
 そして、これら一連の攻撃の主要なターゲットになっているのが――八〇年以降徹底的に合理化された製造部門にとって代わって――日本において過半数を占めるといわれているホワイトカラーに他ならないのである。
 新たな分業構造の再編によって、ホワイトカラーが格段に増大したことは冒頭に述べた。このホワイトカラーは、欧米と違って日本においてはこれまでブルーカラーといわれる労働者と同じように年功的に処遇されてきた。日本企業にとって現在至上命題となっている人件費を抑制するためには、ここに徹底的な成果主義を導入すること、そしてパートや派遣労働者に代替できるものについては取り替えていくこと、さらにそれを法制面でも条件整備していくこと――これがこの間の資本の攻撃の本質に他ならない。
 いまのところ日本の労働者は、これら一連の資本の攻撃に対して一部においてエピソード的な反抗が見られるものの、全体としては抵抗の姿勢を見せてはいない。それは能力主義賃金制度に対する労働者の反応を紹介したところで見たとおり、むしろ全体としてはこうした風潮を歓迎する傾向が支配的である。それでは労働者の命運は今後どうなるのだろうか。
 東アジアにおいては、ホワイトカラーを含む新中間層(都市中間層ともいわれる)は、よく言われているようにアジアの八〇年代の民主化闘争において一定の役割を果たしてきた。だが、これまで筆者が何度も言ってきたように、それは極めて限定的なものでしかなかったのであるが、いずれにしてもアジアの民主化闘争で一定の役割を果たしたことは間違いない。では、翻って日本の場合はどうか。日本のホワイトカラーはどこに向かい、どのような役割を果たしていくのか。
 この問題を考えるために、次回でもう一度アジアに目を向け、もっと広いパースペクティブからこの問題を考えてみたいと思う。
 何やら話があらぬ方向へ脱線してしまった感があるが、次回は本筋に戻って東アジアにおける九七年の経済危機以降のバランスシートについて触れつつ、筆者なりにまとめに入りたいと思う。

 ホワイトカラーはこれらの攻撃に対してどのように応接しているのだろうか? いまのところリストラされた当事者が労働組合へ相談に駆け込むというケースが部分的に見られるが、組織的な抵抗がされているわけではない。ではそれが起こるかというと、先に統計でも示したように労働者の全体的な傾向としては能力主義を容認する傾向がはっきり出ているし、それはひいてはリストラをもやむなしとする傾向をも生み出しているのが現状である。連合も表向きは首切りを認めてはいないが、企業からリストラの提案があった場合、例えば転勤や出向として、あるいはそれができないときに希望退職を募って退職金にプレミアムをつけるとか、転職支援制度を整備して早期退職優遇制度を設るならば、リストラもやむを得ない、としているのが彼らの立場である。それゆえ労働組合の組織的な抵抗が起こるとは当面予想できないし、またより徹底的なリストラを打ち出すことが会社の株価を引き上げるような風潮になっているので、リストラはより一層すすめられることになるであろう。

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