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韓国は、いま  かけはし98.9.6号より

在日韓国人B・C級戦犯の闘い
イ・ハンネ氏の半世紀にわたる名誉回復闘争

 「われわれは祖国からも日本からも完全に捨てられた」。
 今年で8年目、日本政府を相手に謝罪と補償の請求訴訟を行っている在日同胞イ・ハンネ氏(74)は淡々と語った。彼は、いわゆる「韓国・朝鮮人B・C級戦犯者」だ。捕虜監視員として一緒に行った韓国人同僚のうち23人は死刑となり125人が有期・無期懲役刑を受け服役した。日本は彼らを徹底して利用した後、紙クズのように放り捨てた。
 日帝の植民地時代に18歳の少年だったイ氏は、月給が多くもらえる道路工事の監督に就職するというぐらいの考えで、故郷の全羅南道宝城郡兼白面沙谷里から旅立った。兼白小学校を卒業し書堂(私塾)に通った後、地元の郵便局に勤務したりしていた彼は1942年、面(村)事務所に勤務していた友達から2年契約で月給が50円ほどになる捕虜監視員募集の話を聞き、応募し合格した。

日帝に利用されて捨てられて

 郵便局職員の月給が13〜14円の時節だった。それまでは徴兵制が実施されてはいなかったが、既に消防団や青年団、あるいは支援兵だの北海道での鉱員募集だのといってゴチャゴチャしていた時でもあり、どのみち家にいることもできなくなるだろうということを予感していた。捕虜監視員ならば戦場に出ていくわけでもないし、うまくいけばカネにもなるだろうと考えた。
 その年の6月、宝城郡から応募した50〜60人のうち合格した30人の中に入って釜山の西面にあった野口部隊の臨時練兵場に行った。後になって分かったことだが、それは事実上の強制徴用だった。全国から3千余人が選抜されて来ていたが、各郡・面単位で差し出し人員が割り当てられていた。毎日のように、ほおを殴られながら軍人精神、軍属読法、軍人勅諭、戦陣訓などを叫び、銃剣術を学んだ。
 捕虜監視のための外国語や風習も習ったが、これはおよそ役に立たなかった。英語は後になって捕虜たちと生活しながら、手探り状態でわずかばかりをモノにしたにすぎない。3カ月と予定されていた初年兵の訓練が2カ月で終わった後、軍艦に乗ってタイに向かった。ちりぢりバラバラにされた彼らは日帝の南方進出のための作戦用鉄道の敷設の現場や飛行場・港湾・道路工事の現場に投入された。
 イ氏はタイのノンブランドックからビルマ(現ミャンマー)のタイビサヤまでの415キロ区間の泰緬鉄道建設の現場で捕虜たちを使役する仕事を担当した。有名な「クワイ河の橋」も、この区間にあった。彼の仕事は捕虜たちを監視し、食糧や医薬品を調達するとともに、建設作業に動員することだった。身分は「軍属要員」で、下士官の下での最末端の労務管理担当だった。
 彼を含めた6人がヒントック捕虜収容所に囚われていたイギリス、オーストラリア、オランダ軍捕虜500人を担当した。捕虜たちは重労働と劣悪な食品・医薬品の補給、熱帯の伝染病によって倒れていった。大体20%ぐらいが死んでいったが、末端の監視員としては、どうすることもできなかった。契約期間の二年が過ぎても日本軍は彼らを朝鮮に戻そうとはしなかった。
 1945年8月15日の日本の降伏宣言から数日後、いわゆる「自然除隊」の状態になった。それぞれ、わきまえて行動せよ、という言葉だけを聞いた。彼らは寺の境内や空き地に集まり、部隊から持ち出した物品や中国人らの助けによって生活しながら故郷に帰る方法を考えた。
 そうこうしているうち、9月に連合軍から召集の通知が来た。彼らは日帝の軍人・軍属らを呼び集め、並ばせ、捕虜たちに処罰の対象者を指を差して指摘させた。同じ場面が4〜5回、繰り返された。イ氏は捕虜たちが、だれがだれなのかよく分からなかったが、捕虜たちは毎日、見ていた末端軍属ヒロムラを覚えていた。創氏改名した彼の日本式の名前だった。

日本人だったのかそうでないのか

 イ氏は政治犯収容の刑務所で6カ月ほど過ごした後、シンガポール刑務所に収監された。数千人の東南アジア地域の戦犯者らが、ここに収容された。死なない程度のカロリーだけが供給されつつ取り調べを受けた後、起訴された。50〜60%が死刑の言い渡しを受けた。イ氏は、もはやなるようになれという心情だったが、絞首刑だけは免れることを祈った。
 けれども合同裁判の場で日本軍の将校らは自分たちの責任を回避した。彼と一緒に行った14人のジャワ・スマトラで勤務した四人、中国で勤務した8人、フィリピンから来た1人など、23人の末端韓国人らが死刑の言い渡しを受け絞首刑にされてしまった。
 5人の告訴人たちは彼をヒントック収容所の管理将校だとみなした。罪名は患者に強制的に仕事をさせ、多くの人々を死に追いやった、というものだった。否認したが、取り調べ官は抗議を受けいれはしなかった。ところが1カ月ほど過ぎて、訴訟は棄却され、彼は釈放された。
 船に乗り香港まで行ったが、そこで英国人が再びヒロムラを捕らえた。またもやシンガポールの刑務所に囚われていった彼は3〜4週間後、前と同じ内容で起訴された。告訴人は捕虜側の責任者だったロブを含め6〜7人に増えていた。2カ月間の裁判の末に47年3月20日、死刑が言い渡された。
 彼らはイ氏が韓国人だという事実をハッキリと分かっていたが、このような事情をおよそ考慮しなかった。通常、2〜3カ月の間に死刑は執行されたが、彼には8カ月がたった後、20年の刑に減刑した、との通知がきた。オーストラリアの法務長官が死刑執行の最終承認の段階で、無罪放免した人に同じ罪名で再び死刑が言い渡されたという点を問題視したということを後になって初めて知った。彼は自分が故郷を離れた後、ずっと井華水(朝一番の井戸水を神仏に供えること)を欠かさず、わが子の無事帰還を祈ったオモニ(母)の真心が自分を救ってくれたのだと信じている。
 1951年8月、イ氏は同僚たちとともに東京・巣鴨刑務所に移監された。52年、サンフランシスコ講和条件によって日本が刑務所の管理をするようになると、雰囲気は全く変わった。講和条約によって日本国籍を喪失した韓国人らは東京地裁に人身保護法に基づく即時釈放の訴訟を提起したが、地裁ではなく最高裁が「刑罰言い渡しの当時は日本人だったのだから、刑の執行はそのまま行う」として棄却の決定を下した。
 日本当局は、後では、これを完全にひっくり返して適用した。イ氏が同僚7人とともに91年11月、東京地裁に日本政府を相手として、謝罪と同時に戦犯服役者に服役期間中の一日を5千円に換算した金額、死刑にされた遺族に5千万円を支払えとの訴訟を提起すると、今度は「サンフランシスコ講和条約によって日本国籍を喪失したのだから」現行法律上、補償の対象者となることはできない、として棄却した。

責任を押しつけ合った日韓の両政府

 彼は56年6月になって、やっと仮釈放された。生まれて初めてみる東京の街に、どんな縁故もなく放り出された。巣鴨刑務所に慰問に来ていて、韓国人や台湾人らも戦犯者として収容されていることを知り、後々まで物心両面にわたって援助してくれた歯科医の今井さんや、「日本の戦争責任を代わりに押し付けられた韓国・朝鮮人B・C級戦犯後援会」の薄見教授ら良心的な日本の民間人らが希望を与えてくれたばかりだ。
 日本当局は日本人の軍人・軍属および戦犯者に年金、慰労金、遺族年金などを支給し、台湾人たちにも200万円ずつ支給した。唯一、韓国人の軍人・軍属や戦犯者たちだけは除外した。65年、韓日国交正常会談において、すべての問題が国家対国家の次元で解決したのであって、韓国人戦犯者の問題は「韓日会談によって一括解決」した以上、韓国政府に問え、という論理だった。
 だが韓国政府さえ、彼らの問題は請求権の対象にはならないとして、徹底して無視した。駐日韓国大使館は外交権の及ばない事案であるとして言い逃れた。帰国した一部の同僚たちは祖国では「日帝への協力者」扱いをされ、後ろ指を差されていた。軍事政権治下の暗く重苦しい現実もいやだったが、三度三度の食事さえ精一杯な中で、帰って行く旅費もなかった。それでイ氏は祖国行きを放棄した。

政治に責任を押しつけた98年最高裁

 後になって、補償を訴えるために当時野党だった社会党や共産党などを訪れると、「アカ」だとの声まで耳に入ってきた。自民党の側は韓国人戦犯者たちに会ってくれさえしなかった。55年、鳩山内閣以来35年間、政権が代わるたびに補償や支援の対策を要求したが、何の役にもたたなかった。こういった状況の中で故郷では父親が機関に呼び出され取り調べまで受けた。そういった知らせを伝え聞き、社会党や共産党を訪れることもやめた。彼は民団であれ総連であれ、いずれの側にも加担したことはない。
 イ氏ら韓国人戦犯者62人は刑務所の職業訓練の過程で取得した運転免許を元手にして58年に板橋区蓮根にタクシー会社を設立した。何事も一緒にやるという趣旨で「同進会」を作り、会社の名前も「同進タクシー」とした。85年に株主たちが代わるときまで20余年間、何事も心を合わせて、それなりに生活の基盤を築いていった。
 昨年の7月13日、東京高裁は「原告らの不満は理解できないわけではないが、法律がないがゆえに道理がない」として一審同様に棄却の決定をした。そうしながらも「適当な補償立法が強く要望される」とし「何らかの立法措置が取られるべきだ」と指摘した。原告らの主張はもっともなことだが現行の法律ではどうすることもできない、として結局、責任を政治圏に押しつけたわけだ。
 二審では人権侵害と人格を無視したことに対する謝罪とその表れとしての象徴的補償金を一人当たり200万円ずつ請求するという方向に訴訟内容を変えた。カネのためではなく日本政府の誤りを認めさせ、犠牲者たちと遺家族らの痛みや悲しみを慰労するためとする訴訟趣旨を明らかにするためだ。
 イ氏は来年の今頃には出される最高裁の結果も同じだろうと考えているが、司法当局が自らの問題を認めたことは大きな進展だと受けとめている。
 「今後も、この問題の解決のための立法運動を続けていく。私はわれわれの運動が軍隊慰安婦など未解決な問題の解決にも役立つものと信じている。日本人600人が参加している後援会がわれわれを懸命に支えてくれている。すでに7人のうち3人もが結果を見ることなく他界したが、残っている人々は後援会に感謝している」。

数奇な運命を祖国も理解してほしい

 イ氏は連合軍の捕虜らが当時、自らを含めた朝鮮人末端監視員らを戦犯者として挙げたことについて、恨んではいないと語った。監視員らの目の前で自分らの同僚が倒れていくのを見守らなければならなかった捕虜たちとしては当然のことではなかったか、というのだ。
 イ氏は、自分たちが「結果的に日帝に『手助け』していたとき、祖国の独立のために身をも捧げた数多くの人々がいたということを、だれよりもよく知っている立場から、祖国に対しては何も要求する資格がない」との言葉を何度も繰り返した。ただ、幼い時からずれ始まった自分たちの奇遇な運命について、祖国はいささかでも理解してくれることを望む、との言葉を忘れなかった。(「ハンギョレ21」第271号、99年8月19日付、東京=ハン・スンドン記者)


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