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新自由主義経済下のラテンアメリカ〔]〕の2  かけはし99.11.29号より

ラテンアメリカ左翼の動向

山本三郎


軍政との闘い、ソ連・東欧の崩壊を経て

5 ブラジルPTの闘いの意義

 結成まもないPTとブラジル労働運動にとって大きな転機と飛躍をもたらしたのは、こうした闘争の過程でキリスト教基礎共同体の運動と結合したことであった。このことによってPTは従来の労働者政党や労働組合運動とは異なった性格を与えられることになる。そしてそのことによってブラジルPTはラテンアメリカ左翼のみならず、混迷する世界の左翼勢力にとって進むべき一つの道を示すことになった。
 キリスト教基礎共同体とはスラムや農村の貧しいカトリック信者によって構成される住民組織である。一般的には10数人から30人で構成され、週1、2回集まって聖書を読み、様々なことを話し合うことで成り立っている。この組織は軍事クーデター直前の63年にブラジルで誕生し、ラテンアメリカ各地に広がっていく。とりわけブラジルでは軍事クーデター後急速に増え、最盛期にはブラジル全土でその数は8万、構成員200万人に達する。
 基礎共同体は本来宗教的なものなのだが、解放の神学の影響を受けたこともあり、自分たちの生活の問題、社会問題に取り組んでいくようになる。軍政下でブラジルは農村も都市も社会矛盾の坩堝(るつぼ)であった。農民は土地を奪われ、あるものは農場での日雇い労働者になり、あるものは都会へと流入していく。都会では流入する住民を吸収しきれず、スラムが爆発的に膨張し、住環境、衛生問題、子供の問題、失業の問題は深刻化していくばかりであった。
 基礎共同体のメンバーは自分たちの生活改善をめざして、上下水道の問題、電気、道路、学校、土地獲得の要求を掲げて闘っていく。こうした闘いを通じてキリスト教基礎共同体は、軍政下で唯一の民衆組織として軍事政権に対抗していくようになる。
 一方、70年代末からの労働者の闘いの中心をなしたのは、自動車産業、金属産業といった近代産業に働く、それも労働組合に組織されたエリート的な労働者だった。その労働者が貧農や、スラム街のインフォーマルセクターの未組織労働者と結びついていったのだ。PTは賃上げの問題のみならず、スラム街の生活改善運動、農村での貧困問題にも積極的に取り組むことによって、労働運動に限定されない社会運動的広がりをもった政党へと成長していくのである。
 また基礎共同体との結合はPTとその労働組合運動の組織的ありかたにも影響を与えることになった。従来の労働組合運動、左翼政党にあった官僚主義的ありかたにかわって、基礎共同体での「対話方式」が取り入れられたのである。つまり下部組織での討議に基づいて上部組織が討議したのち、再度下部組織の検討を経て決定するという形である。
 一方、基礎共同体のメンバーにとってもPTの存在は重要な意味を持っていた。確かに基礎共同体の数は多く、全国に広がっていた。しかし、実際に個々の基礎共同体のもつ運動の影響は地方的に限定されたものであった。また民主化過程で復活した政党はエリート的な集団であり、政治的経験もコネもない基礎共同体のメンバーにとっては遠い存在だった。基礎共同体のメンバーにとってもPTを通じて自らを政治的に表現していくことは非常に重要な意味を持っていたのである。
 こうしてPTは80年代を通じて影響力を拡大し、89年の大統領選挙でPTの候補ルーラは、コロルと大接戦を演じたのである。前述したように、現在PTではフランコ政権への参加問題、九四年の大統領選挙問題、レアルプラン、新自由主義経済改革問題等を巡って左右の亀裂が深まっている。
 しかし、70年代末以降のブラジル労働運動とPTの闘いの軌跡は、ラテンアメリカの左翼のみならず、私たちの闘いの方向に対しても多大な示唆を与えているのである。

6 サンパウロフォーラム

 1990年ブラジルPTの呼びかけによってラテンアメリカの左翼48組織が参加して、ブラジルのサンパウロでフォーラムが開催された。いわゆるサンパウロフォーラムである。ソ連・東欧圏の危機的状況の中で、ラテンアメリカ左翼の共通の討論と国際的連帯の基盤をつくりだそうとする重要な試みだった。会議では新自由主義経済政策に反対するとともに、その政策が生みだす矛盾へ対応していくことを決議し、左翼にとって情勢は有利であるとの認識を示した。
 第2回メキシコシティー(91年)、第3回ニカラグアのマナグア(92年)での会議をうけて、93年にはキューバのハバナで第4回サンパウロフォーラムが開催される。この会議にはラテンアメリカとカリブ地域の112の参加組織と25のオブザーバー組織(中国共産党、ベトナム共産党等の他地域の組織を含む)が参加した。
 会議ではキューバ防衛という強い立場を打ち出すとともに、自由開放経済政策の破綻と民衆の反発、及び闘争の高揚という情勢認識を示し、93年〜94年の各国選挙での左翼の勝利の可能性を高らかに宣言した。結局、93〜94年の選挙で左翼は勝利することはできなかったが、左翼にとっては過去25年間で最良の結果でもあった。
 しかし第5回サンパウロフォーラム(95年、ウルグアイ)はそうした結果を総括せず、参加した多くの組織は議会主義の枠組みの中に自らをとどめる傾向を示したのである。それを象徴したのがメキシコの政権党PRIのオブザーバー出席であり、サパティスタ民族解放軍へ招請状を発行しなかった事実であった。
 また特筆すべきことはこの会議には社会主義インター、国連のラテンアメリカ経済委員会、米州開発銀行総裁等への招待状が出されたことだった。彼らは結局この招待をうけなかったのだが、この事実はフォーラムの多数派の中には新自由主義経済とその矛盾に対して闘うのではなく、当事者との話し合いによって新自由主義経済の改良を勝ち取ろうとする傾向があることを明確に示したのである。
 翌96年、エルサルバドルで第6回のフォーラムが開催される。この会議に参加した圧倒的多数の参加者は、EZLNの提起した「大陸間会議」への連帯を表明する。また、社会主義的未来へむけての討論、移民の権利等での具体的行動のための討論、女性だけの会議等も行われ、第5回フォーラムの傾向に対して一定の歯止めをかけることになった。
 サンパウロフォーラムはラテンアメリカ左翼にとって極めて重要な会議である。フォーラムへの参加組織は120から130以上にのぼり、左翼社会主義組織、民族解放戦線組織、左派民族主義組織、伝統的共産党、トロツキスト組織と多様であり同質的なものではない。また革命的潮流は少数であり、議会主義的左翼が多数を占め、従来の階級闘争的立場を放棄した組織も少なくはない。
 従ってフォーラムがたとえば「新自由主義経済」反対を宣言したとしても、額面どうりに受け取ることはできない。既成制度内にとどまっている左翼の多くは、現実的政策判断、現実的な政治への関与という名目によって新自由主義経済政策を受け入れているからである。従って、新自由主義経済政策に反対する大衆運動を現実的に組織し、闘っている左翼との乖離が生じてきており、今後、問題になっていく可能性をはらんでいる。

7 サパティスタ民族解放軍の闘いとその背景

 1994年1月1日、NAFTA(北米自由貿易協定)発行の日、サパティスタ民族解放軍(EZLN)がメキシコ、チアパス州で武装蜂起する。彼らはメキシコ政府に戦争を宣言するとともに、メキシコ人民に向かって、「メヒコの人民へ。--中略--それゆえ、われわれは君に要請する。仕事、土地、住宅、食料、健康、教育、独立、自由、民主主義、正義と平和を求めて闘うというこのメヒコ人民の計画を支持し、断固とした決意をもって参加してほしい」(「メヒコの覚醒者」EZLN機関紙第1号)と訴えた。
 そしてこの呼びかけに応えるように、1月から3月にかけてチアパス各地で農民・先住民は土地占拠闘争にたちあがる。3月末までにチアパス全州で20近い土地占拠闘争が起き、占拠された土地は四万ヘクタールを越えたのである。
 EZLNの闘いはメキシコ、チアパス州のラカンドン地域を中心とする農民・先住民の闘いである。しかし、その背後にはラテンアメリカ各地の先住民の自治と権利を求める多くの闘いがあり、新自由主義経済下で自らの僅かな共有地さえ収奪の危機に瀕している多くのチアパスの農民・先住民の土地奪還の闘いがある。
 1990年6月、エクアドルの首都キトの中心部は先住民集団によって占拠され、幹線道路も封鎖される。エクアドルの先住民連合の闘いだった。実力をもって彼らは政府に自治権、先住民文化の尊重、居住環境の保全、教育の権利、憲法での多民族国家の規定等を要求したのである。そして92年、4000人を越すエクアドルの先住民はアマゾンからキトまでの400キロを行進し、前記の要求を再び政府につきつけた。
 結局、政府は地下資源の開発権はその手に残したものの、110万ヘクタールの国有地を3つの民族集団に授与したのである。こうして先住民連合は90年代のエクアドルの新自由主義に反対する中心勢力となり、大統領を解任に追い込んだ97年の「民衆反乱」で決定的役割を果たすことになる。
 1991年12月、不正選挙に抗議してチアパス州のパレンケ市役所を占拠した先住民100人が逮捕される。翌92年3月7日、300人の先住民がメキシコシティーに向けて1100キロメートルの徒歩行進に出発した。連邦政府に逮捕者の釈放、土地の分配、先住民の人権、食料の確保を要求するためだった。「先住民族の平和と人権を求める行進、シニッチ(チョル語で蟻の意味)」である。
 同じ1992年10月2日、「侵略の500年」を告発する2万人を越す先住民・農民のデモ隊が、サン・クリストバル・デ・ラス・カサスを埋めつくし、北米自由貿易協定反対、憲法27条(先住民族に関する条項)改悪反対を唱えて行進した。彼らの大部分はチアパス高地の村々からやってきたきた先住民だった。
 チアパスはメキシコでも最も貧しい地方である。メキシコ革命の後も大土地所有制が残り、自らの土地を持たない農民は大農園での低賃金労働者として働く以外なかった。そして土地を所有する農民の、その僅かばかりの農地さえ新自由主義経済改革は奪っていくことになった。80年代末から90年代初頭にかけてのコーヒーの国際価格の急落はチアパスのコーヒー生産農家を直撃する。農業資金融資の返済が不可能になった弱小のコーヒー農家は、農園を手放さざるを得なくなったのだ。
 今、メキシコでは新自由主義経済改革によってエヒード(農業共同体)の譲渡さえ認められ、農地は再び大土地所有者と農業資本に急速に集約しつつある。NAFTAの発効はその状況に追い打ちをかけることになる。アリゾナ産の安いトウモロコシのメキシコへの流入は、トウモロコシの生産によって生活を維持している先住民の小規模農家に潰滅的な打撃を与えることになるからだ。
 EZLNの蜂起の直後、メキシコ政府はEZLNの孤立を内外に示すために、チアパス州先住民・農民集会を開催する。もちろんEZLNを支持しそうな戦闘な組織は排除したうえでである。しかし、310の組織が参加した1月22日の第2回会議では武力闘争ではなく対話路線を進めるが、EZLNの武装蜂起には反対しないという合意がなされる。そして2月に行われた第3回の会議では、チアパス州の主要な先住民・農民組織45団体がEZLNを無条件で支持することを表明したのである。(つづく)


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