| 韓国はいま、北朝鮮日誌 かけはし98.9.27号より |
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参戦作家ファン・ソギョンが見た「ベトナムでの韓国軍良民虐殺」 |
「ハンギョレ21」第273号の特集「ベトナム縦断特別ルポ―韓国軍良民虐殺の現場」を読んで小説家ファン・ソギョン氏が原稿を送ってきました。遅まきながらも、われわれの恥部を注目する「ヒューマニティ」を持つに至ったことは幸いなことだ、とする筆者は、20世紀の西欧社会がアジアなどで行ったあらゆる邪悪な政治的軍事的行為とともに、われわれ自身がアジアで行った行為もまた調査し記録しなければならない、と主張しています。ファン・ソギョン氏はベトナム戦争の期間中の1967年8月から68年10月までダナンで海兵隊員として参戦した経過があります。(「ハンギョレ21」編集者)
ベトナムでの韓国軍による「良民虐殺」に関する記事を読みながら、複雑でやるせない思いを禁じえなかった。われわれがこれまで隠然とは分かっていながらも「陽」の下にさらすには少なくとも今日程度の社会的条件が必要だったのだろうという思いからだ。
ベトナム戦争の性格とわが現代史
その記事を読んだころ、京釜高速道を通って地方回りをしていた日の午後、オリンピック大路で交通の大渋滞に遭い、それがベトナム戦の枯れ葉剤の被害将校たちの抗議デモだというのを知った。彼らは原爆の被害者たちと同じで死ぬときまで本人自らも不治の病に苦しめられるばかりでなく、彼らの子どもたちも奇形で生まれたり、成長してからも後で症状が現れて障害者になってしまうという。
われわれが上の二つの事実で分かるように、いつも世界の中で広まっている事物の両側面について留念しないなら、感傷に陥りやすい。ややもすれば「良民虐殺」に対する時期遅れの照明は数年前に知識人たちの間で同情的に起きた韓国人兵士との混血児たち、いわゆる「ライタイハン」への関心が、なにほど副次的問題であったかを、一言で示しつくす。そればかりか日本の右翼らが南京虐殺や挺身隊問題を論じる韓国の世論に対して「ベトナムでの韓国軍の暴挙」を例にあげて防御したりもする。
来年は6・25(朝鮮)戦争勃発50周年になるが、われわれはいまなお、この戦争の正しい性格規定を行えずにいる。それはわれわれがいまなお分断されたままで「停戦体制」を維持しているからだ。実際、昨年には外国の学界ではよく知られている「韓国(朝鮮)戦争」についてのある観点が「親北容共」として問われさえしたが、いっそう驚くべきことはその見解の発表者が大統領の政策企画諮問委員長という重要な位置にいた人なのに、そうだったからだ。
韓国戦争についてはいったん置いて、この文章の焦点に入るためには何よりも「ベトナム戦争」の性格究明をしなければならないだろう。
ベトナムは19世紀にフランスが強制的に占拠して植民地として以来、日本が一時占領した後、再び宗主国だったフランスの植民地支配が繰り返されると抗仏独立戦争へと続き、米国の介入によって南北に引き裂かれる。北部はホーチミンを中心とした抗仏独立運動家たちが主導勢力となり、南部は日本が満州で溥儀を押し立ててカイライ政権を作ったように、フエを中心にバオダイ王朝を建てたが、初代大統領ゴ・ジン・ジエムはその政府の官僚出身であり、その後、軍事政権の歴代大統領がすべてフランス植民地軍隊の将校出身だった。
政権初期から反民衆、反民族的だった南ベトナム政権は暴圧と腐敗へと結びつき、そんな関係で南側の自由主義的知識人や抗仏戦争当時の独立運動家あるいは先進的な社会主義者たちが「南ベトナム民族解放戦線」を結成し、闘争するに至る。従ってすべての西側の論文や記事が指摘しているようにベトナム戦争は百年にわたった「ベトナム民族解放戦争」だったのであり、フランス帝国主義の直接支配と米国の帝国主義的間接支配に対するベトナム民族の抵抗戦争だった。
われわれは以上の事実から象徴的な「比喩」をわれわれの現代史に重ね合わせることもできるだろう。はたして日帝時代、太平洋戦争に日本の大東亜共栄圏のために徴兵や徴用によって引っ張られていったわれわれのアボジ(父親)世代と冷戦時代に東アジアでパックス・アメリカーナのブロックを形成しようとした米国によってベトナムに引っ張られていったわれわれの世代との間に、どんな違いがあるのか。
老若男女を問わず自由殺傷の対象に
米国は世界の至る所で勝利する戦争を遂行してきながらも韓半島(朝鮮半島)において初めて、そしてベトナムで二度目の「勝利できない戦争」のつらい経験を味わった。
韓半島では、かつて第二次大戦で使い残した各武器をタイミングよく消費したが、太平洋戦争の際に全地域全過程にわたって使った量よりももっと多くの武器を韓半島に浴びせた。東京の米極東司令部は「韓半島は石器時代に戻った」と定義したほどだった。
米国はベトナムで1カ月に20億ドルの軍費を支出するとともに毎月10万トンの爆弾を投下した。米国がベトナムで遂行した戦争は「一種のSF的戦争だったのであり、韓国戦争終結以来、人間破壊の技術がなし遂げたあらゆる進歩を試験してみた実験戦争」だった(日本の細菌戦の要員たちや資料がそのまま米軍に吸収され、これが韓国戦争当時に使用されたということは、いまでは常識になっている。例えば類似の黒死病である流行性出血熱や世界の学会に登録されたウィルスは、その残滓だ)。
ベトナムではジュネーブ協定で国際的に禁止されたすべての「非人道的殺傷武器」が何度も使用され、それは民間人とゲリラとの区別がないという意味で「非正規戦」と呼ばれた。例えばあらゆるものを焼き尽くすナパーム弾などは日常的なものだったし、空中で破裂してから地上でさらにはじけた後、その破片がさらにはじける爆弾、数百万個の人馬殺傷用の針が一時にはじけ出るCVB爆弾、DNC(ジニトロオルタ・クレゾール)爆弾、DNP(ジニトロ・フェノール)爆弾などの化学弾や各種ガス、それにかの有名な枯れ葉剤がジャングルや村々に広範囲にまかれていった。
私は1967年8月から68年10月までベトナムのダナンで海兵隊員として勤務したが、チュライの基地では「機動巡察兵」として、ダナンでは合同捜査隊の「市場調査要員」として勤務した。従って局限された前線の歩兵たちよりは広範囲で客観的な「情報」を持っていた。ベトナム戦争が米国から解放戦線と北ベトナム側に主導権が移っていく分水嶺は68年の「旧正(テト)攻勢」を起点としてだった。
このころに米軍司令官ウェストモーランドはそれまでの「索敵せん滅」作戦から転換するが、ゲリラの根拠地となる自然集落を粉砕し、「戦略村」を作ってベトナム民衆を収容し、戦略村の外は広範囲な「自由殺傷地域」に設定した。事実上、このころから有名な「ミライの虐殺事件」だとか「カントリー事件」という良民虐殺行為が公々然としたい放題になされた。戦略村の外で動き回るすべてのものは老若男女を問わず自由殺傷の対象となってしまったのだった。
「被圧迫者は被圧迫者に過酷だ」
「被圧迫者は被圧迫者に苛酷だ」という言葉があるが、アジアにおいてこれは普遍的な事実となる。何よりもいちいち例を挙げなくとも、われわれは韓国戦争において経験したのであり、ベトナム戦争にかかわって戻ってきた将校や下士官が加わった「光州」で、その生々しい例を見る。
パリ、ソルボンヌで教育を受け南ベトナム民族解放戦線の外相として、後にパリ会談にも出席したグエン・チ・ビンが70年代初めに非同盟会議に出てきて発表したのによれば、韓国軍の「公式的」良民虐殺の件数は約3000余件にのぼるという。
私の知るところでは、そういった良民虐殺が繰り広げられるのは大々的な作戦でではなく、むしろ中隊や小隊のような小部隊単位の待ち伏せ捜索偵察のときに起きやすい。殺傷は大単位作戦においてはるかに多く展開されるが、人間的怨恨の痕跡が残らないのは、人的接触がなく、ヘリコプターや飛行機による爆撃、ないしは対地攻撃や地上軍の砲射撃などによってなされるからだ。
小単位の兵力は老練な地方ゲリラの狙撃やブービートラップのような障害物のために村の周辺で死んだり傷ついたりするが、このようなことを経験すると異常な民族感情や戦友愛によって復しゅう心が煽られるのだ。実際、このころに前線に投入されていた韓国軍の大多数は貧しく飢えていた(当時、韓国の農村は端境期の苦労が年中行事となるほど貧しかった)農村出身の兵士たちだった。
パク・チョンヒ維新政府と、まさに台頭し始めた韓国の各財閥が戦争特需の利得を争う間、彼らの命の値段は1日1ドル50セント程度だった。特に日本は韓国戦争でわが民族の血を対価として戦後復旧を遂行できたし、ベトナム戦争の特需を通じて現在のような先進国へと背伸びした。
私はこの世紀末に20世紀の西欧社会がアジア、アフリカ、ラテン・アメリカなどでほしいままにしたあらゆる邪悪な政治的軍事的行為を忘れまいとする人間であり、特に私はアジアの人間としてアジアでの彼らの行為と、われわれ自身の行為を調査し記録しなければならない、と主張する。
そのような意味から考えると、われわれにはベトナムでの「良民虐殺」のような事件に胸を痛めながらも、今更ながらわれわれにもはたして西欧の市民たちのように「ヒューマニティ」という「余裕」が生じたかのような安堵の息を吐く。
かのオリンピック大路の歪み傷ついた父親やその子らを憐れみと悔恨のまなざしで眺めながら、米国の徹底した経済的軍事的封鎖の下、この10年近く継続して消えていった100万に及ぶ北側のわが同胞の「餓死者」たちを思う。これが世界に現れた事物のアイロニカルな両面性だ。(「ハンギョレ21」第275号、99年9月16日付)
北朝鮮日誌
99年9月12日〜9月18日
北朝鮮
9月12日 b米朝ベルリン協議終了後の金桂寛外務次官「我々は互いの憂慮を解消すべく努力した。もう少し忍耐強く待てばみなさんにもわかることがあるだろう」と語り、また米朝ミサイル協議再開を認めた。b金剛山観光で訪朝中の韓国人男性、北朝鮮監視員に北朝鮮残留を希望するが拒否され、帰国後韓国内で逮捕される(15日)る。
9月13日 b労働新聞「日本の人民もまた朝鮮に対する植民地支配の清算と朝日国交正常化を望んでいる」との論評。b国連総会出席のためニューヨーク入りする白南淳外相が米国のオルブライト国務長官かペリー北朝鮮政策調整官と面談するとのソウル発情報流れる。
9月14日 b第54回国連総会出席のため白南淳外相を代表とする代表団がピョンヤンを出発(中央放送)。同外相は総会期間中の個別会談をEUやASEAN加盟諸国に申し入れており、ドイツ・フランス・イタリア・ノルウェー・フィンランド・ベトナム・ラオスが応じる方向(国連筋情報)。b「われわれは南朝鮮の統一愛国の人士や国の統一に役立ちたいという人士たちといつでも接触と対話の門を開いている」(ピョンヤン放送)
9月15日 b外務省スポークスマン、APECでの日米韓共同記者発表に関して「米国が信義ある行動をとれば、われわれもそれに合わせて対応する」「米国が、真に朝鮮半島の平和と安定に関心があるなら対朝鮮圧殺政策を是正し、南朝鮮駐留米軍を撤退させて脅威を根源から解消すべきだ」と強調(中央通信)。
9月18日 b姜錫柱第1外務次官の10月訪米のワシントン発情報流れる。
その他
9月12日 b米朝高官ベルリン協議終了(6日間)し、「ミサイル発射当面回避。経済制裁緩和提示・協議継続」を趣旨とする共同新聞発表。bAPEC日米韓首脳会議「共同新聞発表」。「北朝鮮が緊張緩和、永続的平和確立の行動とれば3カ国がそれぞれ関係改善の措置をとる用意がある」としている。
9月13日 bバーガー米大統領補佐官、「米朝両国は協議の前向きの雰囲気を阻害するようなことは当面いっさい行わないことで合意した」と記者会見で述べる。b野中官房長官「社民党の村山元首相を団長とする超党派訪朝団実現」を最優先させる考え明らかに。b「日本と朝鮮をつなぐ女性のピースライン訪朝団」68人が16日から北朝鮮訪問へ。団長の清水澄子参院議員(社民党)は記者会見で「日朝国交正常化を求める女たちのアピール」(女性226人署名)を発表。b30日からピョンヤンで開かれる卓球の国際招待大会に日本選手4人(男子)が出場することに。
9月14日 b「どんどん食糧を提供するような甘い政治、外交をやったのでは北朝鮮政策は成り立たない」(山崎拓自民党前政調会長・講演で)b韓国・仁川市郊外の海岸で北朝鮮軍兵士を名乗る男性が亡命。b野呂田防衛庁長官、有事法制本格論議を強調(日本記者クラブ講演)。
9月15日 b米国の対北朝鮮ペリー報告公表される。「核開発・ミサイル能力抑止に焦点をおく」「北朝鮮の協調あれば国交樹立の準備」「在韓米軍維持」との内容。
9月16日 b野中官房長官、記者会見でペリー報告全面支持を表明。
9月17日 b米政府、対北朝鮮経済制裁緩和決定を発表。発表に際しての記者会見でペリー政策調整官は「北朝鮮は数週間以内に立場を明確にするだろう」と水面下での米朝協議進行をにおわせる。b北朝鮮の穀物輸入に占める国際社会からの無償支援の割合が95年の33%から98年には80%に激増(韓国・統一省発表)。bRENK(救え!北朝鮮の民衆緊急行動ネットワーク)、国連難民高等弁務官東京事務所に北朝鮮から中国への越境者難民認定を求める書面と署名を提出。
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