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 『餓死した英霊たち』藤原彰著--青木書店 2500円   かけはし2001.9.10より

「戦死者」の六割以上が餓死だった

「英霊」はどんな死を強制されたのか

 小泉純一郎首相が最も感銘を受けた書物は、特攻隊などで死んだ戦没学生の手記を集めた『あゝ同期の桜』だという。敗戦の時にはまだ物心のつかない幼児で、戦争の記憶がほとんどないはずの小泉首相が靖国神社に参拝する時の戦没兵士のイメージとは、特攻攻撃などで「華々しく国のために一命をなげうった」人びとなのだろう。しかしアジア太平洋戦争における日本軍(軍人・軍属・準軍属)の死者二百三十万人の死の実相は決してそのようなものではなかった。
 著者は述べる。「この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の過半数が戦闘行動による死者、いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実である。『靖国の英霊』の実態は、華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、飢餓地獄の中での野垂れ死にだったのである」。ここでいう餓死とは、栄養失調による「不完全飢餓」によって病気に対する抵抗力を失った結果としての戦病死をもふくむ広義の規定である。
 「戦死よりも戦病死の方が多い。それが一局面の特殊な状況でなく、戦場の全体にわたって発生したことが、この戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の特質を見ることができる。悲惨な死を強いられた若者たちの無念さを思い、大量餓死をもたらした日本軍の責任と特質を明らかにして、そのことを歴史に残したい。大量餓死は人為的なもので、その責任は明瞭である。そのことを死者に代わって告発したい。それが本書の目的である」(本書「はじめに」より)。
 著者の藤原彰氏は、一九二二年生まれで陸軍士官学校出身の職業軍人であり、一九四四年には中国戦線の前線の中隊長として戦闘に参加し負傷した。復員後は軍国主義の反省の上に東京大学に入学し、全学連創設期のオルグとして活動した、という希有の経歴を持つ歴史学者である。
 自らその内部にいた旧帝国軍隊の批判的研究に関しては第一人者である氏は、本書で悲惨な「野垂れ死に」をもたらしたアジア太平洋戦争の実態を暴き出して、軍部指導者の責任を厳しく告発している。彼は、「英霊」とは、どのような死を強制された人びとなのであるかを具体的に解明し、死を強制した者の責任を問うことなく、死んでいった兵士を「英霊」として美化する「靖国」思想の倒錯を批判している。
 アジア太平洋戦争における「餓死」の実態について、著者はガダルカナル島、ニューギニア、インパール作戦、「孤島」の置き去り部隊、フィリピン戦、中国戦線について、公刊戦史や厚生省援護局などの資料に基づき、日本軍戦死者のうちの「餓死」の比率を推定している。
 「ガダルカナル島の場合、方面軍司令官は死者二万、戦死五〇〇〇、餓死一万五〇〇〇と述べている。ブーゲンビル島では、タロキナ戦以後の死者約二万はほとんど餓死であったと推察される。……ソロモン諸島の死没者の四分の三にあたる六万六〇〇〇名が餓死したと考えられる」。
 「厚生省の調査では、東ニューギニアの戦没者は一二万七六〇〇となっている。各部隊の報告や回想では、いずれも死者の九割以上が餓死だったとしている。仮に九割として計算すると、実に一一万四八四〇名が餓死したことになる」。
 インパール作戦をふくむビルマ方面軍でも死者の七八%、十四万五千人かそれ以上が餓死者であったと推定される。中部太平洋では、マキン、タラワ、クェゼリン、サイパン、グアム、テニアン、ベリリューなどの諸島では日本軍は上陸した米軍と戦って「玉砕」したが、米軍にとって不必要なために無視され、戦線の背後に取り残されたため、補給も途絶え、餓死の運命が待ち受けていた島も多い。著者は中部太平洋の諸島全体を見たとき、戦死者と餓死者の割合は半々と見ている。つまりここでは十二万以上が病死・餓死していたと見られる。
 アジア太平洋戦争の戦場別で、日本軍が最も多くの死者を出したのは五十万人に上ったフィリピン戦線であった。ここでは八割の四十万人が餓死と推定される。一九三七年の日中戦争開始以来、中国戦線での死者はフィリピンに次いで多く四十五万五千七百である。その中で、栄養失調に起因するマラリア、赤痢、脚気などによる病死者は死因の三〜四割を占める。とりわけ最も多くの犠牲者を出した一九四四年の大陸打通作戦では過半数が病死とされる。著者はこれらの例から、中国戦線での全死者の約半数が栄養失調にもとづく病死であり、その数はしたがって二十二万以上としている。
 こうした地域別調査を集計した結果、著者は「戦地栄養失調症による広い意味での餓死者は、合計で一二七万六二四〇名に達し、全体の戦没者二一二万一〇〇〇名の六〇%強という割合になる。これを七七年以後の戦没軍人軍属二三〇万という総数に対して換算すると、そのうちの一四〇万前後が戦病死者、すなわちそのほとんどが餓死者ということになる」と結論づけている。
 なぜ、戦死者の過半数が餓死者であるという悲惨な事態が作りだされたのか。著者は、「補給無視の作戦計画」、「兵たん軽視の作戦指導」、「作戦参謀の独善横暴」という大量の犠牲者を必然化させた軍事作戦上の欠陥を、日本軍の本質にさかのぼって探り出そうとしている。ここでは「白兵戦」中心の精神主義とそれと不可分の関係にある、上級に対する徹底した服従規律の強制と兵士の人権の無視がえぐりだされる。
 どれだけ下級兵士の人権が無視されていたかの一つの例となるのは、中部太平洋のメレヨン島の例である。ここでは補給も途絶し、米軍からも無視される中で敗戦にいたるまで飢餓との闘いが続いたのであるが、同島守備隊は最後まで「軍紀厳正」だったということで、昭和天皇裕仁からとくに賞賛の言葉が与えられたのである。
 しかし「軍紀厳正」の実態は、飢えのために食糧を盗み出そうと試みた兵士に対する裁判によらない処刑の乱発で保たれていたものだった。食糧の配給も将校と兵士の間では大きな差が付けられていた。その結果、同島からの陸軍の生還者は准士官以上の階級では七割であるのに対し、兵士は二割に満たなかったのである。すなわち餓死の運命は平等に軍人を襲ったわけではなく、明確な階級差がついていた。下級であればあるほど、餓死の比率も多くなったのだ。
 こうした人権無視の極致と言えるのが捕虜となることの禁止と玉砕の強制である。「日中戦争やノモンハン事件で捕虜の禁止は定着し、捕虜帰還者は軍法会議で重刑を受けることになった。この捕虜を認めず降伏を許さない日本軍の建て前が、どんな状況の下でも通用したことが、大量餓死や玉砕の悲劇を生み出した」と著者は語り、「もし降伏が認められていれば、実に多くの生命が救われた」と主張する。
 三百十万人の日本人の死者と、日本軍による三千万人(著者の推計による)のアジアの人びとの死をもたらしたアジア太平洋戦争における「死」の実像をつぶさに検討する時、「靖国の英霊」が国家と軍の指導者によっていかに残虐な「野垂れ死に」を強要された存在なのかを知ることができる。本書は、国家による「追悼・慰霊」が、餓死を強制した者を免罪するものであることを、あらためて明らかにしている。(平井純一)

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